死ぬのが怖い人へ。体が死んでも"命"が存在し続ける理由

死ぬのが怖い人へ。体が死んでも"命"が存在し続ける理由

あなたは「死」に対してどのようなイメージを持っているでしょうか。

普通の発想であれば、死は全ての終わりであり、あらゆることの中で一番恐ろしいものだと感じることでしょう。

もし、あなたが年齢的に若ければ、死とは遠い先の話で、自分には関係のないことだと思うかもしれません。

しかし、そんな人も、歳を重ねていくと、家族や大切な人が亡くなったりして、自分の死についても意識せざるを得ない状況になっていきます。

さらに、自分が重い病気などにかかり、死が現実として眼前に迫ってくると、より一層「死ぬと、どうなるのだろう」と強い不安を感じることになります。

この記事では、そうした恐れが少しでも薄れるよう、「死」に関する隠された実像を明らかにした上で、それが実は全く怖いものではないということをお伝えしていきます。

死ぬことが怖いのはなぜ?

そもそも、私たちが「死」を恐れてしまうのは、なぜなのでしょうか。

もっともイメージしやすいのは、死の前兆として、自分自身に起こる様々な苦しみでしょう。

死の前に訪れる、肉体的・精神的な苦しみ

人が死ぬ前には、前兆として肉体・精神面での不調が現れますが、その時に大小の苦しみが伴います。

具体的には、

  • ガンや心臓病などの病気で苦痛を感じる
  • 体力・筋力が低下して、活動ができなくなる
  • 行動範囲が狭まり、人との関わりが減る
  • 孤独でいる時間が増える
  • 生きがいを無くし、無気力になる

などが挙げられます。

そうした苦しみには個人差がありますが、一方で、自分の努力によって、ある程度コントロールできるものでもあります。

  • 生活習慣を整え、健康な生活を送る
  • 日頃から節約をしてお金を貯める
  • 積極的にコミュニティに参加する など

もし、自分が健康体でいて、趣味や仲間を作る努力を行えば、死の間際まで苦しみを感じずにいることもできるでしょう。

しかし、生活を充実させる努力をしたとしても、ある「根本的な問題」は未だ解決しておらず、事あるごとに頭をもたげることになります。

死んだらどうなるか分からない

その根本的な問題とは、死んだら自分はどうなるのか」ということです。

元気なうちは、この問題を他人事のように受け止められますが、いざ死が眼前に迫り、目をそらすことができなくなると、強い不安にかられます。

死について、死んだことのある人から教えてもらったり、お試しで体験するというわけにもいかないため、ただ漠然とした、得体の知れない恐怖だけが心に残ります。

人の心は、こうした全くの未知の体験に対して、必要以上に強い恐れを抱いてしまうのです。

人は未知のものを恐れる

以下のような寓話があります。

ある人が闇夜に一人歩いている時、に出くわして慌てて家に帰りました。

夜中も「家に入ってきたらどうしよう」と考えて、怖くて眠れません。

朝になって恐る恐る確かめに行くと、それはなんと、ただの縄でした。

これを蛇縄麻の喩え(だじょうまのたとえ)といいますが、人は、断片的な情報から勝手な想像をして、それを信じ込んでしまうことがあります。

そのため、死について何も知らないのにも関わらず、一部の否定的なイメージから恐ろしいものと思い込んで、その考えから抜け出せなくなっているのです。

そこで、もしこの蛇と縄の話のようにバッと死の正体を見破ることができれば安心なのですが、そうもいきません。

なぜなら、死後の世界に関しては、人によって様々な説を唱えており、どれが答えなのか皆目検討がつかないからです。

  • 全くの無に還る
  • 天国や地獄に行く
  • 生まれ変わる など

そのため、最終的には何が正しいかというより、「何を信じるか」ということが一番の焦点になります。

事実が確かめられない以上、自分なりに納得のいく結論を得られることが、死に対する心持ちを大きく左右するのです。

日本人にとっての「死」の認識

死を自分なりの方法でポジティブに迎えるために、人によっては宗教が示す死後の世界を信じて、キリスト教の洗礼を受けたり、念仏を唱え始める人もいます。

しかし、実際のところ、信仰を持たない日本人にとっては、宗教の示す死後の世界についてピンと来ないことが多いようです。

おそらく、科学的な考え方を強く持っている日本人は、

  • 死んだら、自分という存在が一切なくなる

というような考え方が、根強くあるのではないでしょうか。

もちろん、目に見える肉体についてのみでいえば、この考え方は間違ってはいません。

ですが、このような唯物論的な死生観では、もはや死に対して希望を見出すことは一切できなくなります。

さらにこの考え方を極端に解釈するなら、「どうせ全部なくなるんだから、好き放題しよう」と、欲望のままに生きることを正当化することにもなりかねません。

果たして、この”肉体が死んだら、自分という存在は無くなる”という命題は正しいのでしょうか。

その前提を疑うことから、日本人にとっての、新しい死の迎え方が始まるのではないかと思います。

人は肉体が死んだら全部終わり?

世の中では科学が発達して、目に見えるあらゆるモノや現象に対する研究が進んでいます。

その科学の価値観では、人間の命すらも目に見える肉体」だと認識してしまうことがあります。

人の命を軽んじている訳ではありませんが、事実、科学が人の死に対して与えうる意味は「生物の機能の停止」という他にはありません。

多くの人もそこで納得して、考えることを止めるようです。

ですが、科学は、無限の可能性を秘めた人間という存在を捉える、ほんの一つの観点にすぎないともいえるのではないでしょうか。

かの重力の法則を発見したニュートンですら、科学者としての自分自身について、以下のような言葉を残したそうです。

私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。

私たちは、科学という素晴らしい発明を尊重しつつも、無限の可能性があるこの世界や人間の存在を、むしろ非科学的に、感覚的に探ることも時には必要なのではないでしょうか。

「非科学的な」人の死についての考え方

さて、医学的には、脳の機能停止=「脳死」をもって、人の死が決定されるそうです。

脳が機能しなくなれば、人間としての活動が一切できなくなるため、それが生物としての死であることは、分かりやすい考え方です。

ですが、その事実を拡大して捉えて、「人間の命は、脳の電気信号に過ぎない」という意見を持っている人もいるようです。

このように人の生の原因を「肉体や脳そのもの」とする説が本当なのであれば、私たちは死んだら何もなくなる儚い存在であるといえるでしょう。

さて、実際はどうでしょうか。

例えば、人間が「立ち上がる」という活動を例にとってみます。

この立ち上がるという活動の原因を、肉体的な側面で説明するなら、

人の身体は骨と腱から形作られている。骨は関節の中を自由に動き、腱が伸びたり縮んだりすることで折り曲げることができる。

そこで、脳が電気信号を送って足の腱を伸ばすように命令し、立ち上がるという動作を行なった。

となるのかもしれません。

確かに、肉体を動かして活動をする時には、脳内で様々な電気信号が通い、その指令によって筋肉や骨などが動くことになります。

しかし、それはただ肉体で起きた現象の「プロセス」を説明したにすぎず、それが体が動く「原因」かと言われると、少し違和感があるのではないでしょうか。

シンプルな話、あなたが立ち上がった本当の原因は、

お腹が減って、ご飯を食べに行こうと思ったから

ではないでしょうか。

もし、あなたが何もしておらず無心でいるときには、肉体が活動するための電気信号も起きないでしょう。

ですが、「意識」が意思を持って行動を起こす時に、体を動かすための電気信号が強力に通い、実際に立ち上がることができるのです。

つまりは、人の生について、

  • 脳や肉体は活動を行うための「条件」であり、
  • 電気信号はその「プロセス」にすぎず、
  • その前に、意識が先立って本当の「原因」として存在する

可能性があるのです。

その証拠に、たとえ肉体が健康体であったとしても、意識が戻らず、ずっと寝たきりになることがあります。

これは、肉体に指令を送る「意識」が不在であるために、脳も肉体も動かすことができない状態といえるでしょう。

人の「意識」は肉体や脳の存在を前提としない

それは、例え高度な情報処理ができるパソコンを持っていても、そのパソコンを適切に管理する人の意思(意識)がなければ何も起こらないのと似ているかもしれません。

まず人がパソコンを活用しようと思って、電源をONにし、色々なソフトウェアを実行することで、パソコンも本来の機能を果たせるのです。

そして、人の意識は、このパソコン(脳・肉体)という目に見えるモノに先立って存在し、その活動が滞りなく行われるよう管理している上位の存在ではないでしょうか。

そうであるなら、低次のツールに過ぎないパソコン(脳・肉体)が原因となって、より高次の意識が生まれる道理はありません。

そのため、仮にパソコンが無くなっても、意識そのものは消失せず、存在し続ける可能性があるのです。

つまり、「意識」の存在は、肉体や脳の存在を前提としないと考えることもできるのではないでしょうか。

意識≒命は宇宙のどこかに存在し続ける

通常、意識と脳や肉体は一体化して活動しており、それらがセットであるからこそ人間であるともいえます。

ですが、もし「命」を人間としての肉体が活動していることではなく、「意識が(どこかに)存在していること」であると捉えるなら、肉体がなくなったとしても、まだ命は存在していると考えられないでしょうか。

この考え方が少しでも納得できるのであれば、「肉体が消えたら、自分という存在が一切なくなる」という発想を逆転することもできるかも知れません。

また、同時に、死後の世界やそれにまつわる様々な宗教的な仮説が、必ずしも間違っているわけではないと思えるようになるでしょう。

それでも死ぬのが怖いなら…

今回は、「肉体の死」が人間という存在の完全な消失ではなく、意識(≒命)そのものは、どこかに存在し続けるかもしれないという仮説をお伝えしました。

あくまで理屈の上での話に過ぎませんが、死に関して、いくらかの希望を感じていただけたのではないでしょうか。

しかし、厄介なのは「頭で死を理解できても、怖いものは怖い」という感覚的な問題です。

それは、りんごの味を言葉で説明したとしても、実際に食べなければ実感が湧かないように、究極的には、死を体験しなければ、本当の意味で納得することはできないのです。

そして、その死を体験する方法としては、私の経験上、「瞑想」がもっとも適切であると考えています。

瞑想は、体の動きを止めて一箇所に座り、かつ心の雑念を取り去って、無に近づけていきます。

その営みは、まさしく「死ぬ練習」をしているのです。

体験した人なら分かりますが、瞑想をして死に近い状態になることは、怖いことではなく、むしろとても心地が良く、深い安心感に包まれる瞬間です。

さらに、瞑想が終わって再び意識を現実に戻すと、エネルギーが深く充電されて、体も心もピカピカに生まれ変わったような気分になります。

このような死があって生があるという、再生のプロセスを体験すると、もはや死はまったく怖いものではなくなるのです。

私がそんな心境になることができ、人生を大きく変えるきっかけになった最高の瞑想について、この記事の結びとして紹介しておきたいと思います。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

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  1. 【当記事】死ぬのは怖いこと?体が無くなっても、命が存在し続ける理由
  2. 人間の「心」と「意識」の関係を、例え話でスッキリ理解する
  3. 魂って存在するの?誰もが体験している3つの性質
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