マズローの自己実現・自己超越欲求とは?【解説】

「自己実現」の真実

「自己実現」とは、通常イメージされるような、単純に自己の可能性を追求したり、創造行為に没頭したりといったような概念ではありません。

自己実現といえばマズローですが、彼自身も、自己実現をもっと奥行きのある概念として提示していました。マズローは、もともと自己実現の中に「至高体験」といった、通常イメージされる自己実現とは異なる側面も含めています。

至高体験とは、「自我超越、自己忘却、無我、利害や二分法の超越、愛、神性、真善美」等のイメージで表される、ある種の神秘体験、宗教体験とも一致するような、人間にとって最も幸福な瞬間です。

この至高体験は、

世間や人間を完全に愛すべきものとして、咎めず、思いやりをもちまたたぶん楽しみをもって受け容れるという意味で、神性がみられるのである―

というような、「利他性」が大きな特徴となっています。

マズローは、自己実現の中に、このような利他的な意味合いを含めていましたが、それにもかかわらず、現在のような極端に単純化され、また、誤った意味合いで利用されるようになったのはなぜでしょうか。

原因のひとつとして、心理学の概念である「自己実現」が他の学問分野に輸入された際に(たとえば経営学)、もともと曖昧でもある自己実現の概念を単純化し過ぎてしまった可能性があります。

一例として、X 理論と Y 理論で知られるマグレガーは、自らの理論の根拠としてマズローの自己実現を引用しましたが、「自分の潜在能力を具現化したいという欲求,自己成長を続けたいという欲求,創造的でありたいという欲求」というように、上記した至高体験等の重要な概念を省略して定義づけをおこなってしまっていました。

マズローは、このような本来の意図から外れて誤用がされている「自己実現」の特徴を以下のようにまとめています。

a.愛他的というよりは利己的な意味が強いこと
b.人生の課題に対する義務や献身の面が希薄であること
c.他人や社会との結びつきをかえりみないばかりか、個人の充実が「よい社会」に基づいている点を看過していること。
d.非人間的な現実を持つ強要的性質や本質的魅力、興味を無視していること
e.無我と自己超越の面がなおざりにされていること
f.それとなく能動性を強調し、受動性、受容性についておろそかにされていること

もしこのような誤用に気づかずに、不完全な理解によって自己実現をめざしても、残念ながら、無意味な結果になってしまうかもしれません。

自己実現と自己超越の関係

さて、「自己実現」にはこういった誤解があることを踏まえ、より明確に自己実現を理解するために、関係の深い「自己超越欲求」についても見ていきましょう。

「自己超越欲求」とは、マズローが晩年になって自己実現の上位概念として追加したものです。

これは、マズローが「至高体験」の追求のために創始し、人間が自己の個人的存在(パーソナル)を超えていく(トランス)働きについて追究を行うトランスパーソナル心理学の研究を通じて得た成果といえます。

自己超越欲求とは、以下のような特徴があります。

自己の超越、真、善、美の融合、他人への献身、叡智、正直、自然、利己的個人的動機の超克、『高次』の願望のため、『低次』の願望を断念する、増大する友情と親切、目標(安静、静謐、平和)と手段(金銭、権力、地位)とのやすやすたる区別、敵意、残忍、破壊性の減少

先ほど紹介した「至高体験」と似ており、かなり宗教的な理念を感じさせますね。

自己超越は、これまであまりに多分な意味を含み、誤解が多かった自己実現から、至高体験を切り分けたもの、としてとらえられるでしょう。

自己超越欲求をもう少し具体的に考えるために、同じくトランスパーソナル心理学に携わり、自己超越についても研究を行った V.E.フランクルの説明から引用してみます。

自己超越という言葉で私が理解しているのは、人間存在はつねに自分自身を超えて、もはや自分自身ではない何かへ、つまり、ある事またはある者へ、人間が充たすべき意味あるいは出会うべき他の人間存在へ、差し向けられているという事態である。
そして、そのように自己自身を超越する程度に応じてのみ、人間は自分自身を実現するのである。すなわち、人間はある事柄への従事またはある他の人格への愛によってのみ自己自身を実現するのである。
言い換えれば、人間は、本来、ある事柄にまったく専心し、他の人格にまったく献身する場合にのみ全き人間なのである。

―人間存在の本質は、自己実現ではなく、自己超越性にあります。
自己実現は、もしそれが目的そのものになると達成されえず、ただ自己超越の副次的結果としてのみ達成されるものなのです。

つまりは、フランクルにとって奉仕や献身による自己超越を目指すことが、何にもまして重要であり、自己実現という「結果」自体の獲得を目的にしたところで自己実現は得られないとしています(ここ大事)。「結果」という見返りを求めて行動をしているうちは、いつまでたっても自己実現はできません。

したがって、自己実現は、奉仕や献身の要素を含む自己超越の働きに支えられていなかったり、自己実現自体が目的であったりした場合、達成は不可能です。

そして、それは先ほど紹介した「至高体験」も同様、自己超越の過程で発生する「結果」であり、それ自体を追い求めるのは不可能なのです。フランクルは、マズローのいう至高体験について、このように述べています。

至高体験もやはり効果であり、効果にとどまるに違いない。至高体験は起こるものであって、追求されえないものである。

マズロー自身も、「至高性をとらえることは、幸福をとらえることと少し似ている」として、これに同意を示しています。

自己実現や至高体験などの「結果」は、自己超越の過程で得られるご褒美としてとらえる程度が妥当なのかもしれません。

自己超越と奉仕

ここまでの説明から、自己超越とは他者や自己を超えた存在に向けて奉仕をすること、といえると思います。

そして、この自己超越の性質を自覚して愛の奉仕を実践することは、世の中にあふれる様々な娯楽より、はるかに大きくて持続する生きがいをもたらしてくれるのではないでしょうか。

先述したフランクルは、自らがアウシュビッツ収容所に投獄された経験から、人間にとって、もっとも生きがい感を与えてくれるのは、この自己超越の性質に近い「態度価値」であるとしています。

この「態度価値」は、自らのいかなる運命に対しても、勇気や愛といった、人間としての尊厳を守る態度をとることで実現される、としています。

人間が何かを創造したり、美しいものにふれたりするのも生きがいにつながりますが、それらは結局のところ、何かしらの対象がなくてはならない=依存的であり、いかなる時にでも実現できるものではありません。

しかし、人に対して愛のある行動をとるということは、死ぬ直前まで実行することができ、かつ、その自由は誰も奪いえない、とフランクルはいいます。

フランクルは、アウシュビッツ収容所のような、人間としての尊厳を全て奪われ、最低限の動物的欲求すらも満足に満たすことができないような環境においても、囚人が愛ある行動をとるのを幾度となく目にし、この態度価値こそが人生に最後まで有意義な意味を与えうることを確信したのです。

なぜこのような奉仕、利他、愛といった態度価値が人間に強力な生きがい感を与え、空虚感を満たしてくれるでしょうか。その点に関しては、フランクルは神的な存在を想定せざるをえないとしています。

神が我々によって無意識のうちにつねにすでに志向されている。

ここまでくると、もはや心理学、精神医学の領域を超え、宗教、哲学的な領域になってきます。

フランクルは、人間の生きがい感の根本は何かを徹底的に追究したところ、最終的に神の存在を受け入れる必要に気づき、精神科医でありながら宗教に大きく門戸を開いたのです。

結び

ここまでの話をまとめてみましょう。

人間は、自己を超えた存在、愛そのものである神が本能的に志向されているからこそ、自己超越、すなわち奉仕を行うことに強い生きがいと幸福感を覚えると考えられます。

そして、この愛の奉仕(自己超越)を、「結果」という見返りを求めずに行う過程で、自分が自分として輝いている喜び、つまり自己実現感が湧いてくるのでしょう。

このように自己実現をとらえられれば、自分と社会、両方が幸福になれる、素晴らしいアイデアに見えてきますね。

↓↓↓
こんな記事を書いておいて、なんですが・・・
おすすめ記事

僕が心理学では幸せになれなかった理由と、本当の生きる意味を紹介します

執筆者(やさい)へのご質問・コメントはこちら

入力いただいたコメント・名前・メールアドレスは一切公開されません。ご質問の場合、入力いただいたメールアドレス宛に個別でご連絡いたします。
※内容によってはご返信できない場合もございます。
* が付いている欄は必須項目です。

CAPTCHA