"本当の自由"とは何か。怖いけど、最高の幸せ【哲学的な話】

"本当の自由"とは何か。怖いけど、最高の幸せ【哲学的な話】

本当の自由とは何でしょうか。

多くの人は、自由のことを「◯◯からの自由」というように、何の束縛もないことであると考えています。

特に労働や人間関係など、自分を嫌な気分にさせる対象から解放されたときに、「自由だ!」と表現することが多いのかもしれません。

現代の日本は、戦後と比べると、とても便利で効率的な社会となり、日本人は一年の中でも100日以上自由な時間を手に入れました。

そして、その時間で趣味やレジャーなど、自分の意志で好きなように過ごすことができます。

しかし、不思議なことに、これだけの自由を手にした日本人であっても、未だ憂鬱な表情を浮かべており、心から人生を楽しめていないように見えます。

それは一体なぜなのでしょうか。

私は、その理由は、人々が自分の好きなことを楽しむことだけが自由だと思っていて、未だほとんどの人が本当の自由を知らないからだと思っています。

そうした背景を踏まえ、この記事では、改めて「自由」についてその本質を見つめ直し、真の自由とは何かということについて考えていきたいと思います。

一番シンプルな「自由」の意味

まず最初に、自由とは何かということを、できるだけ簡単に捉えてみましょう。

よく自由を「◯◯からの自由」と表現する風に表現しますが、これは「束縛がない」ということを意味し、一番シンプルな定義です。

例えば、多くの人は「会社に束縛されている」「あの人に束縛されている」など、自分が嫌に思うことに縛られることには不自由さを覚え、解放されたいと願います。

一方で、余暇に自分の好きなことをしている時、例えば、趣味に興じたり、愛する家族や恋人とおしゃべりをして過ごしている時間には、自由さと感じます。

前者は自分の意志に関わらず「させられている」ことで、後者は自分から進んで「している」という違いがあり、それが感覚的な自由さを左右しているようです。

しかし、ここで、体や心が何かに繋ぎとめられている状態を総じて「束縛」として捉え直してみるとどうでしょうか。

  1. 仕事が終わり、夕食は何を食べようか思い悩む
  2. ラーメンを食べたい欲望が沸き、小一時間ほど列に並ぶ
  3. 手持ち無沙汰になり、スマホを取り出してゲームに夢中になる

このような行動は自由意志のようでいて、見方を変えれば、肉体や心の欲望にコントロールされ、自分の時間とエネルギーを注いでいることにもなります。

すると、自分が望んだ状況かどうかに関わらず、いずれも自分自身の時間や、体、あるいは心が何かに拘束されていることには変わりがないので、本来的には不自由な状態であることが分かります。

究極の自由の特徴

この理屈で、一切の束縛がないということを突き詰めると、本当の自由の究極の姿が見えてきます。

  • 一切の物事や他者との関係性から離れている
  • 一切の肉体の要請(〜したい)から離れている
  • 一切の心の要請(〜したい)から離れている

つまりは、自分の肉体や心が様々な刺激を求めたとしても、それを意識的にも物質的にも切り離して、一切の束縛を免れている状態です。

それは自分の中にも外にも何もないことであり、人間として限りなく「死」に近い状態といえます。

もし本当の自由を得るために、自分の肉体と心を満たしてきたものの全てを手放すことが必要なら、人によってはとても怖く感じるかもしれません。

むしろ、現代の人々はそのような状態を恐れて、「自由からの逃走」をするために、様々な欲望を満たすための行為や刺激を常に求めているのではないでしょうか。

自由からの逃走〜自由は怖いこと?〜

ここで、自由の輪郭をより明確にするため、エーリッヒ・フロムという哲学者の「自由からの逃走」という本を紐解こうと思います。

この本では、第二次世界大戦中のドイツで、なぜ当時の全ての人々がナチスを支持してしまったのかということについて論じています。

簡単な主旨としては、

  1. 近代的な資本主義社会では、個人は伝統的な絆を必ずしも必要としなくなり、個人の持つ自由度が大きくなった。
  2. 一方で、人間は、自由になればなるほど、心の底では耐えがたい「孤独感」や「無力感」に脅かされるようになった。
  3. その強烈な不安を抑えるために、集団への帰属を強く求め、依存するようになり、個人が自分自身であることを止めて機械のような画一性を持つようになった。
  4. 機械のようになった人々は、安定をもたらしてくれそうな大きな権威(ナチス)に、たやすく従属するようになった。

といったような内容です。

人は、自由を求める一方で、自分が自由の中にただ一人置かれることは非常に恐れて、それを誤魔化すためにあらゆる依存をし、不安を覆い隠そうとします。

この状況を「自由からの逃走」と名付けたのです。

確かに、私たち人間は訳もわからぬままこの世界に放り込まれ、目的地すらわからずに取り残されたような存在です。

その中で「自由に生きていい」という風に言われたとしても、多くの人が困惑し、強烈な不安を感じることでしょう。

その状況を考えると、何か自分以外のものにすがり、繋がりを作って安心を得ようとすることは、生物の本能ともいうべきものなのかもしれません。

日本人も心の奥で自由を恐れている

現代の日本人の場合も、何かの思想に洗脳されることはないにせよ、この自由からの逃走に当てはまる部分も多くあるように思えます。

近代化により、個人で生活が可能になった分、孤立する人々も増え、常に寂しさで心が支配されており、その不安を忘れさせてくれる依存対象を探し続けているのです。

例えば、その典型として、日本人は社会の「幸せのレール」(いい会社に入って、結婚して、幸せな家庭を築くなど)に乗ることを無意識に重要視しています。

これも見方を変えれば、自由と直面することを回避し、集団に帰属して安心を得ようとしている姿のように見えます。

一方で、そうした人生を歩まない人も、様々な趣味や体験を通して、自分が一番自分らしいような状態を作り出し、何もないことへの恐れを忘れようとします。

いずれのライフスタイルも間違っているということはなく、盲目的な服従よりもはるかに進化した生き方でしょう。

しかし、その根底に「自由への恐怖」があるとするなら、ただ表面に現れる形が安全なものに変わっただけで、問題の本質は変わらないのかもしれません。

つまりは、依然として自由を直視することを恐れて、それを忘れさせてくれる対象に依存し、不自由な縛られた状態へ自らを連れて行こうとするのです。

依存対象はいつか滅び去る

もし、何かに依存して生きることを選択し、自由を失ったとしても、その対象が永遠に存在するものであれば、なんら問題はないのかもしれません。

しかし、現実的には、どんな人も物も、自分の存在さえも永遠ではなく、常に移り変わり、いつかは必ず滅びてしまうのは避けられない運命です。

いま夢中になっている趣味や恋愛などについても、最初は心楽しく喜びますが、段々と色褪せて飽きてしまい、刺激を感じなくなります。

そして、刺激がなくなると、また不安が頭をもたげて、次の刺激を求めて、ということを一生のうちで繰り返し続けます。

人間は日々死に向かっていく存在です。最終的にはあらゆるもの、肉体さえも全て手放して旅立っていかなければなりません。

大半の人はこのことを普段意識することはありませんが、例えば、大事な人を失ったり、孤独な状況に置かれると、嫌でもこの事実に直面するようになります。

その時、これまで目をそらしてきた「自由」という深淵に、自分がただ一人立っていることに気づき、その根源的な恐れを思い出すのです。

本当の自由は「悟り」の境地?

ここまでで、本当の自由について「自由=何もない=死=恐怖」という構造が見えてきたと思います。

そのように言うと、きっととても暗い印象を持つことでしょう。

しかし、私が本当に提示したいことは、自由という何もない、死んだような状態というのは、実は「人間にとって最も幸福な状態」ではないかという発想です。

なぜなら、その状態は、宗教的に言えば「悟り」「解脱」のような状態に限りなく近いものともいえるからです。

ブッダも自由の恐怖と対面した

悟りといえば、仏教の開祖であるブッダが有名ですが、彼も元々はシャカ族という王族の王子であり、何不自由ない幸せな生活をしていました。

そんなブッダはある日、人々の村へ外遊した際に、老いや病、死に苦しむ人々を目撃することになります。

ブッダはその時に強い衝撃を受け、いつか自分自身もこのように老い、病に苦しんで死にゆく存在であると気づいて、強い不安を感じたのです。

そうした中、偶然、ブッダは托鉢僧(物乞いをして生きる出家修行者)に出会います。

その僧は、自分の身とボロ切れの服以外は何も持っていませんでしたが、その顔は天国のようであり、とても幸せそうであったといいます。

その様子を見たブッダは、思わず「素晴らしい」と叫び、自分のこれからの生き方を悟りの道に捧げることを決意します。

そのまま国王となる道もあったのにも関わらず、あえて全てを放棄し、完全なる自由を目指したのです。

何もない自由は「最高の幸福」

そうして出家したブッタは、最終的には「瞑想」によって悟りへ導かれました。

瞑想を通して様々な執着を順に手放し、極限まで自分自身の内側を空っぽの状態に近づけたのです。

最終的にブッダは、ろうそくの火をフッと吹き消したかのように、自身の一切が無に帰り、涅槃(ニルヴァーナ)に至りました。

その境地は、言葉では決して言い尽くせないと思いますが、宇宙の全てと一体になり、まさに何の束縛もない、真の自由を体験したのでしょう。

現代の日本人からすると、このように全てを手放してまでも、悟りを目指す意味が分からないかもしれません。

それでも、インドの人々がそうした生き方を望むのは、あらゆる欲望を超え、全てを手放した先に、確かに最高の幸福があると信じているからです。

実際にブッダをはじめとする偉大な聖者が厳しい修行の末、その最高の境地に到達し、悟りの体験を人々に伝えていきました。

もしこの悟りが本当に存在するのであれば、「何もない」という自由の性質が、本質的には最高の幸福であるという希望をも示しているのではないでしょうか。

日本人が本当の自由を獲得するには?

悟りが本当の自由であるという説を確かめるには、実際に悟りを得ることが最良の方法ですが、日本でそれを確かめようとする人は少ないかもしれません。

なぜなら、これほどまで豊かな生活に慣れてしまった日本人が、今持っている社会的な繋がりや依存対象を全て手放すことは、あまりに恐ろしいことだからです。

また、悟りを得るためには、自分のあらゆる欲望を落としていく必要がありますが、どうすれがそれが可能なのか皆目検討がつきません。

私たち日本人が、今の社会生活を持ちながらにして、本当の自由に近づくには一体どうすればよいのでしょうか。

「瞑想」が日本人にとって最適な方法

私たち日本人が本当の自由へと近づくためには、「瞑想」が最適な方法であると考えています。

瞑想であれば、忙しい日本人であっても空いた時間に実践でき、着実に悟りへの道を歩むことができるからです。

とはいえ、日本でブームになっているマインドフルネスのような瞑想法では、残念ながら悟りに近付くことはできません。

これは、インドの伝統的な瞑想から表層的なテクニックだけを抽出したものであり、その効力は不完全なものだからです。

本来の瞑想の伝統はとても古く、その歴史は5000年以上あり、非常に深遠な教えです。インドではそれほど前から瞑想の真髄が密かに受け継がれてきたのです。

そうした根源的な瞑想は、単なるリラックスではなく、肉体を超え、心を超え、人を本質的な成長へと導く、まさしく神秘のパワーを秘めています。

もし日本でもこの瞑想を行うことができれば、社会的な繋がりは保ちつつも、悟りに近づいていくことができ、いずれ内面的な自由を獲得することができるのではないでしょうか。

日本で唯一、真の瞑想を伝える人物とは

ここからは個人的な体験になりますが、私自身も、本当の自由、最高の幸福を体験したいと思い、インドへ瞑想を習いに行こうかと検討したことがあります。

しかし、偶然にもこの日本で、インドの最も伝統ある、最高の瞑想を受け継いだ人を見つけることができたので、今は、その方にお世話になっています。

実際にその方に瞑想を習い初めて数年が経ちますが、実際に様々な欲望から解放される体験をし、本当の自由とは何なのかを、徐々に実感することができるようになってきました。

「何もない」ということは、最初は恐怖そのものでしたが、瞑想を通じて、それがむしろ大安心の状態であり、必要なものは全てそこにあると理解できたのです。

その方のサイトのリンクを以下に貼るので、本当の自由を体験したいと願う人は、この方の瞑想を始められてみて下さい。

以上、本当の自由に関する考察と、そこに至る方法についてのお話をさせていただきました。

お読みいただきありがとうございました。

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