日本では、ここ十年間、福島、熊本と大きな地震が起き、少しでも被災地のために何かをしようと多くの人がボランティアに駆けつけ、寄付を行いました。
その一方で、SNSなどでは、ある有名人がボランティアや寄付をしているのを見て、自分の社会的信用を上げる「売名行為」をしている、と批判をする人もよく見かけます。
そうした背景があってか、ネットでも、「善と偽善の違いは何なのか」「人間は利己主義が本質なのか」などの議論が最近は増えてきているように感じます。
そこで、今回の記事では、ネット上の様々な意見と、私自身が哲学、心理学、宗教などから学んできたことを踏まえて、本当の善とは何か、ということについてできるだけシンプルに整理していきたいと思います。
偽善と呼ばれる行為の4つの特徴
本当の善とは何かというと難しいテーマのように感じてしまいますが、善ではないもの、つまり「偽善」についてはイメージしやすいと思います。
もし偽善の性質を明らかにすることできれば、反対の本当の善についても、その本質を浮き彫りにすることができるでしょう。
そこで、まずは多くの人が「これは偽善である」と思うであろう点を具体的にピックアップしていこうと思います。
特徴1.独りよがりで、押し付けがましい
もっとも分かりやすい偽善の例は、相手にとって全く役に立たず、かえって手間や害になってしまうことを一方的にやってしまうことかもしれません。
本人は良かれと思ってやっていたとしても、相手にとって必要なことでなければ、お互いが無駄な労力や気遣いをして終わってしまうことになります。
もちろん、単純な行き違いや、理解不足でこのような失敗が起こることがありますし、その時はお節介だと迷惑がられても、後になって感謝されるようなこともあるでしょう。
もしそれが本当に相手のことを思いやった結果であれば、仕方ないのかもしれません。
しかし、ボランティアを行うに当たって、自分自身が認められることに必死で、相手への思いやりに欠如していたことが原因であれば反省が必要です。
理想をいえば、相手にとって一番必要なことを行うことができ、そのことで相手も自分自身も喜びを分かち合えるような行為がもっとも良いといえるでしょう。
善行をそのような気持ちの良いものにしていくためには、心がけとして、まず自分がこうしたいという欲望、願望を一旦脇に置かなくてはなりません。
その上で、相手にとって本当に必要なことは何かということを丁寧に理解するよう努め、自分にできることを焦らずにできれば、きっと良い結果につながることでしょう。
基本的なことですが、相手がいてこそのボランティアであり、善行であるということを、まず認識する必要があるのだと思います。
特徴2.見返りを相手や周囲に期待している
一見、身を呈して人を助けようとしているように思わせておきながら、実はそれが自分を良く見せるためだった場合に、皮肉を持って「偽善」と呼ばれることが多いようです。
本来は何の見返りも求めずに、相手の幸せだけを願って行う行為であるはずのものに、少しでも濁りが見えると、それは残念ながら偽善と呼ばれてしまいます。
もちろん、ある人には偽善に見えても、事実はそうではない場合もありますし、寄付などによって人が実際に助かることもあるので、一概に全部が悪いとは言えないでしょう。
このような疑い出したらキリのない状況でひとついえることは、「人間は、誰しもが完璧ではない」ということかもしれません。
自分が批判しているその人は完璧ではありませんし、自分自身ももちろん完璧ではないと思います。
聖人であれば、100%の完全な善を実践できるかもしれませんが、普通の人では、どう頑張っても多少の見返りを期待してしまいます。それは、むしろ人間として自然なことなのかもしれません。
ですが、逆にいえば、動機がなんであれ、少しでも誰かの役に立とうとする心を持つこと自体は、決して悪いことではないのではないでしょうか。
例えば、ある人が50%が思いやりで、50%がエゴの心で善行をやっていたとします。
そのときに、良くない50%に目をつけて疑いを持ち、あの人は偽善者だ、というように目くじらを立てることもできますし、もう半分の純粋な50%を信じて尊敬することもできます。
どちらが正しい、というわけではありませんが、疑ってばかりいては、皆がいつまでも幸せになることかできないのも、また事実です。
お互いがまだ発展途上であることを理解しながらも、純粋な心がその人の内にあることを信じて、尊敬すること。
疑うことに慣れてしまった現代人にとっては、そういった反対の観点も必要なのではないでしょうか。
特徴3.甘やかして依存させてしまう
私の知り合いは、困っているホームレスの人を見て、度々お金を与えたことがあるそうです。
それで良いことを行ったつもりが、それ以来、その人がどんどんとお金をせびるようになってしまって、断るわけにもいかず、しまいには疲れ切ってしまったと聞きました。
このように、相手がズルズルと依存をしてしまうことを助長する行為は、ある種の甘やかしでもあり、必ずしも善い行いとは言えないのではないでしょうか。
施す側はその人を救うために色々と手を尽くすのですが、いつまでも与える側が大きな負担を背負うことになると、いずれ関係が破綻してしまうことでしょう。
そういった状況に陥らないための、人を本当の意味で助ける方法として、以下のような例えがあります。
目の前に飢えている人がいる。その人に「魚」を与えるか、それとも「魚の釣り方」を与えるか
正解は、簡単ですね。後者の魚の釣り方を教わった方が、最初は面倒でも、その人の自立を促し、結果的に依存関係は最小限になります。
理想をいえば、善行もこのようにお互いの負担をできるだけ小さくしながら、その人が成長し、自立できるような方法がベストです。
もちろん、一時的には強い依存が必要な時があります。そんな時には一生懸命に助けてあげることも当然必要でしょう。
しかし、それ以外は、基本的に無理をはしないようにして、依存を適度に避けつつ助けるくらいの距離感を保った方が、長い目で見ても良い関係が築けるのかもしれせん。
特徴4.「良いことをしければ」という義務感で行う
宗教の中でも、キリスト教などでは、「隣人愛」と呼ばれる無償の愛の行為が重要視されています。
マザーテレサなどの聖人も、この教えにのっとって、非常に過酷な戦場で奉仕を実践し、多くの人の尊敬を集めました。
一方で、宗教的な考え方を持って善行に熱心に取り組む人は、「抑うつ」にかかりやすいとも言われています。
それは、聖書や経典が示す理想の人間像と、実際の自分自身を比較して、もっと良いことを「しなければならない」という強迫観念を持ってしまうことがひとつの原因になっています。
善行を行うことで、少しでも人間としての理想に近づこうとする姿は尊いものがあります。
しかしそれでも、義務感から思い詰めて行うような善行は、いずれ相手にとっても自分にとっても大きな負担になってしまうのではないでしょうか。
キリストもブッダも、善行を義務的に、無理をしてでもしなさい、とは言っていないように思います。
どちらかというと、自分ができる限りの善行を、日常の中で感謝して行い、自分の中に少しずつ愛を育てていく大切さを説いているのではないでしょうか。
善行にあまりに必死になってしまう影には、自分自身の寂しさや、足りない何かを埋めようとする心があることもあります。
その場合、ネガティブな動機で、追われるように人に施しを行ってしまい、善行に依存するような形になってしまいます。
そうではなく、今の自分の弱さを受け入れつつ、自分の出来る範囲で優しさを差し出す方が、人としてより自然な成長の仕方といえるのではないでしょうか。
偽善=純粋な善意とエゴが混ざっている状態
以上、偽善と呼ばれるものの特徴を、私なりにリストアップしてみました。
こうしてみると、世の中で偽善と言われている行いは、100%が全てエゴや欲ではなく、やはり多少なりともそこに純粋な善意も含まれているように思えます。
競争社会の中で、人はどうしても自分の立場を守り、自分を高く見せようと気を張っています。
その結果、自己防衛のエゴが意図せず差し挟まってしまい、本人は純粋な行為のつもりであっても、側から見ると不純なものに見えてしまうこともあるのでしょう。
しかし、だからといってまったく善を行わないことが正しい、とは言えません。
「やらない善よりやる偽善」とはいいますが、人は不完全ながらも善行を進めていき、だんだんとその行為を本当の善に育てていく必要があります。
最初は善行にエゴが混ざっていても、自分の内側を見つめ、反省をしながらそれを行ったなら、行為が純粋になっていく可能性は大いにあるでしょう。
同時に、その人の側にいる人も、「この人も一生懸命頑張っているのだな」と、寛容な心を持って見守る姿勢を持つことができれば、よりよいのかもしれません。
「本当の善」は、実はとてもシンプル
ここまで挙げた偽善の特徴を逆転させて、本当の善に近いものの性質をまとめると次のようになるのではないでしょうか。
相手のことを深く思いやる心を持ち、自分も相手も成長するような正しい行いを、見返りを期待せずに、自然と軽やかに行う
これを本当に実践できる人がいたら、素晴らしい愛の人であるといえそうです。
不思議なことですが、偽善とは何かということを、皆が認識しているということは、逆に本当の善とは何かということも実は知っているということになります。
ですが、世の中でそれを本当に実践している人が少ないために、ある種幻想のように捉えて、「そんな人間はいない」と否定的になってしまうのだと思います。
たしかに、人間は不完全であり、利己的なところも多くあります。ですが、人がこのような純粋な愛の人に進化する可能性はゼロではありません。
過去の様々な宗教のマスターは、そのような人間性の完成を成し遂げたからこそ、現在でも多くの人が尊敬し、今にその教えが伝わっているのだと思います。
もし、人間が今よりも進化していくとしたら、それは利己的に奪い合う方向ではなく、お互いに与え合い、助け合う方向ではないでしょうか。
物質的に満たされた日本において、次に目指すべきテーマはそういった精神性の成長にあるのではないかと、私は思っています。
なぜ人は善行やボランティアをするのか
さて、そもそも、わざわざ自分の時間と労力を使ってまで人を助けるの?と素朴な疑問を感じる人もいるでしょう。
相手からの見返りも期待できないのに、人はなぜ善行をするのでしょうか。
以下の記事にもまとめていますが、本当に純粋な善行は、ある種宗教的な理念が含まれていると考えています。
善行は、どの宗教においても勧められていることで、キリスト教であれば隣人愛の実践であり、仏教では慈悲という、人を憐れみ助ける行の実践です。
キリスト教では、善行は、神様が必ず見ているものであり、それが純粋な行為であれば、後で何倍にもなって祝福として返ってくると言われています。
また、仏教的には、良い行いは悪いカルマ(業)を消すことにもつながり、魂が浄まって、本来の自己、大我、悟りに近づくとされています。
善行によって、何かいいことがあったという体験をした人は少ないかもしれませんが、善行をした後に、「気持ちがいい」「スッキリする」という感覚を、覚える人は多いことでしょう。
その体験をどう捉えるかは人によりますが、私の場合は、自分が純粋になると同時に、何か根源的な温もりのようなものを感じることがあります。
それは儚い火のようにおぼろげな感覚ではありますが、まるで心のふるさとのような、優しい愛に包まれる安心感を与えてくれます。
全く科学的ではない、こうした原初的な感覚こそが、実は多くの人が深いところで求めているものであり、心を巣食う深い不安感、空虚感を癒すヒントなのかもしれません。
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本当の善に近づくには、「瞑想」がピッタリだと分かりました!