「働く意味」って何?労働の喜びが失われた歴史的な理由

「働く意味」って何?労働の喜びが失われた歴史的な理由

現代の日本人にとって、労働の意味とはなんでしょうか。

おそらく、現代の日本人の多くが「収入のため」と答えることでしょう。そうして得た収入は何に使うのでしょうか。

自分自身の生活を支えるため、それはもちろんですが、娯楽・レジャー、車、タバコ、お酒等々、一時的にでも自分を忘れて気持ちよくなれる何かに使うのが、一般的な日本人の姿ではないでしょうか。

現代の日本人の労働観、つまり働く意味は、「収入を得て生活費を稼ぎ、余ったら娯楽・レジャーに費やすこと」といえるかもしれません。

大昔からこの労働観は存在していますし、正しい・間違っているという話ではありません。

ですが、江戸時代から日本人の労働観を振り返ってみると、そんな現代とはかなり違った姿を見ることができます。

江戸時代の日本人の働く意味は?

江戸時代は、労働=収入を得るための手段、という考え方は現代に比べて、あまりされていなかったようです。

社会学者R.N.ベラーの「徳川時代の宗教」によると、当時、商人を含む民衆は、神道・儒教・仏教の宗教的な思想と、それに根差した「武士道」の影響下にありました。

その思想においては、労働は、主君・親族や、生命を恵んでくれた天に報いるための手段であるという考え方が存在していたそうです。

同著では、特に、三つの宗教観を混ぜ合わせて民衆に向けて説いた、石田梅岩二宮尊徳らの哲学や労働観が、国への忠誠という大目的に適合し、日本の急速な経済発展に結びついたとしています。

石田梅岩の労働のとらえ方

石田梅岩らの思想の影響力は全国的ではなかったにせよ、勤労・節制によって社会や神仏の恩に報いるという思想は、商人にとっての労働の意味付けに重要な役割を果たしました。

「三方良し」で知られる近江商人がそのよい例かもしれません。

近江商人は石田梅岩の心学の影響を受けており、実はその流れから、トヨタ自動車や日清紡など日本でも名の知れた大企業が生まれています。

その近江商人の思想においては、まず、労働による富の追求は望ましいものではありませんでした。

「利真於勤」といって、利益は労働の結果偶然出てきた「おこぼれ」に過ぎないとし、営利至上主義を戒めており、社会や神仏への奉仕が第一義的だったようです。

むろん、近江商人の教えでは、正しい手段で収入を得ることは否定していません。

しかし、その富が社会のために利用されず、快楽への欲望の充足に利用されると批判の対象になるのです。

そして、近江商人の間では、労働に対する見返りを求めることも善いとはされませんでした。

「陰徳善事」といい、自己顕示や見返りを求めずに、人知れず誰かのために尽くすことを美徳としていたのです。

これは、見返りに執着して労働を行う限り、結果が思うように得られなかった場合は苦悩し、仮に得られたとしても、次回それが得られないのではと恐れ、一喜一憂するためでしょう。

このようなところに仏教の思想を垣間見ることができます。

なぜ働く意味がここまで変化したのか

ここまでで、現代と江戸時代の日本人の労働観を比較してきました。

現代の日本人の多くが収入・娯楽・レジャーを働く目的としているのに対し、江戸時代の日本の商人は、宗教的な思想に根差した奉仕の精神をもって仕事に臨んでいたのです。

いったいなにがきっかけで真逆に変化していったのでしょうか。

ここで、その原因とも深く関係している、経済大国アメリカの「働く意味」の変化について見ていこうと思います。

実はアメリカでも?「働く意味」がなくなったプロセス

働く意味がこのように変化していったのは、実は日本だけではありません。

あのアメリカでも、日本と同じように、かつては奉仕のために行われていた労働が、いつしか収入を目的とする労働に変化してしまったのです。

この変化の原因は、著名な社会学者マックス・ウェーバーの書、「プロテスタンティズムと資本主義の精神」に記されています。少しだけこの書を紐解いてみましょう。

アメリカ人の働く意味〜開拓時代〜

アメリカは、元々イギリス人が大陸を開拓し、移住を始めたことで成立した国です。

イギリスでは、キリスト教の一宗派であるプロテスタントが力を持っていたため、アメリカに移住した人々も、考え方のベースにはキリスト教的な奉仕の精神が存在していました。

このプロテスタントの考え方では、富の獲得は、「善の追求」という目的遂行の付随的な結果であり、また、それに伴う快楽をできるだけ排斥する、禁欲的な態度が推奨されていました。

ウェーバーによると、当時のアメリカ人の考え方は、

「プロテスタントは、不正と本能的な貪欲とを敵として戦った。なぜなら、貪欲こそ、彼等が『むさぼり』『拝金主義』等とよんで、排斥したもの、別言すれば、富める生活を究極目的として財産を求めることだからである」

というようなものであり、収入・裕福な暮らしはあくまで「結果」であって、それ自体が目的ではありえませんでした。 また、収入の消費の仕方についても、

「所有の自由な享楽に全力を尽くして反対し、消費、ことに奢侈的消費を圧殺した」

というように、日常生活を維持することのため以外には、無闇に消費活動を行うことはせず、余ったお金は貯蓄しました。

そして、蓄えた富は、いわば、自分自身がどれだけ神に貢献したかという証となるものでした。

このストイックな奉仕精神で、ひたすら競い合うように労働したからこそ、アメリカでは資本主義が最も発達した、とウェーバーはいいます。

富の競争の始まり

しかし、こうした宗教観念も時代の変化には逆らえず、科学の進歩とともに衰退していきました。

すると、その過程で、「富は善行を頑張った証だから、お金持ちは偉い」という考え方はなくなり、「お金持ちであること=贅沢をする=偉い」というように変化していきました。

この形骸化した労働観が、競争の原理に結び付くことでさらに加速していき、どれだけ収入を多く獲得し、贅沢な生活によってステータスを周囲にアピールするかを競い合うようになりました。

そして、それが呼吸をするくらい当然のこととして、生活の中にシステムとして組み込まれていったのです。

ウェーバーは、残念そうに、いまや資本主義は「機械的基礎」の上に立って、キリスト教的精神の必要がなくなってしまったといいます。

現代では、この富の獲得競争システムに歯車として組み込まれることは、私たちにとって、ほとんど当然のことのように感じるでしょう。

それに慣れてしまって、もはや自分以外の何かのために働くという感覚は、ほとんど無くなってしまったのかもしれません。

戦後、「働く意味」がアメリカから日本へ輸入

日本においては、そのアメリカの影響を大きく受けて、働く意味が根本的に変わっていきました。

明治時代まで、日本人は宗教に基づく奉仕の精神によって、商業的な成功を収めることができたのですが、第二次世界大戦でアメリカに敗戦後、状況は大きく変わります。

日本はアメリカの近代的な政治・経済体制に適合する必要に迫られ、その過程で、これまでの「古き良き時代の価値観」をどんどんとそぎ落としていったのです。

その結末は言うまでもありません。「富の競争」「働く意味の損失」が日本にも蔓延し、気づけば誰もが働くことに喜びを見出せなくなってしまいました。

以下のスライドに、江戸から現代にかけての、日本における労働観の変化を簡単にまとめてあります。

その「働く意味」で幸せになれるか

もし自分が貧困状態であれば、労働の目的も、富の蓄積や生活水準の向上に目標がおかれたとしても、それはもっともなことです。

しかし、貧困の是正がほぼ達成された現代では、労働の意味は何になるのでしょうか。

高度成長経済、そしてバブル崩壊による経済の生死両方を経験した日本人は、「どうして経済発展し続けなければならないのか」と、心の片隅で疑問を感じている気がします。

そして、もしかしたら、その行き場のない気持ちのはけ口が、様々な娯楽・レジャーなのかもしれません。

企業もそれを支援するかのように、いかに消費者の享楽的欲望をあおり、散財させるかで競争を繰り広げるようになっている気がします。

このような「働く意味」で人は本当に満足できるのでしょうか。幸せになれるのでしょうか。

その疑問に答えることこそが、今の時代の私たちに与えられた使命なのかもしれません。

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