生きる意味がない人へ。最高の幸福を手に入れるただ1つの方法

生きる意味
このサイトでは、これまで心理学や哲学、宗教について考察し、そこから生きる意味を探ってきました。

私自身はずっと、生きる意味を求めて、数百冊の書籍を読破し、各種のセミナー、セラピー、様々な宗教の会合に出席しておりました。

どうしたら本当に幸せになれるのか。どうしたら死への恐れがなくなるか。どうしたら生きるのが楽になるのか。その答えを求めて、訪ね歩いていたのです。

しばらくして、ひととおり知識を学び終えた私は、今度は、スピリチュアルな世界にも足を踏み入れました。

見える世界だけではなく、見えない世界についても、体験を通して学ぼうと思ったのです。

そして、様々な苦労と放浪の果てに、ついに私はご縁に恵まれ、本当の生きる意味に出会うことができました。

今回の記事では、私がそこに至るまでの過程と、最高の幸福に出会う具体的な方法を紹介していきます。

※この記事は、私自身の体験に基づいて書いた、個人の考えに過ぎません。また、体験も価値観も人それぞれなので、決して全ての人の合意が得られる内容ではありません。その点をご了承の上、読み進めていただければと思います。

世の中の生きる意味では、幸せになれない理由

さて、本当の生きる意味を伝えるには、まず「本当ではない生きる意味」について、明確に説明していかなければなりません。

そこで、最初に社会に溢れる生きる意味では幸せになれない理由を明らかにしていきましょう。

日本人の思う「生きる意味」

一般的に、日本に生まれた人であれば、十数年間くらいは親や学校、友達の影響に従って、受動的に日々を過ごす場合が大半だと思います。

しかし、それが20代、大学生、社会人になると、誰かから指示通りに行動するのではなく、自分自身の考えを持って主体的に行動することが求められるようになります。

今、俯瞰してみると、日本人は、このような「自分なりの価値観」を持って生きることを重要視しているようです。

それはそれで素晴らしいのですが、改めて考えてみると、そのせいで多くの人がどん詰まりに陥っているようにも思うのです。

試しに、「生きる意味」とネットで検索すると、たくさんの考え方や意見で氾濫しています。

それらを総合してみると、きっと以下のような意見に収束されるのではないでしょうか。

生きる意味は人それぞれで、共通の答えはない。自分なりの生きる意味を見出すのが人生の目的だ。

そして、自分が信じられるものを見つけたら、ひたすら身を投じて、その中で得られる感覚が大事なのだ。

これはこれで、ある意味完成しており、そう言われて納得しない人はいないと思います。

ですが、生きる意味で迷走している人が見れば、以下のような疑問が浮かぶでしょう。

結局、生きる意味はどうやったら見つかるのですか?

「生きる意味は人それぞれで、自分で見出すものだ」という意見を聞いて、「では、その私だけの生きる意味は、どうやったら見つかるのですか」という問いを返すと、途端に誰もが目をそらすような気がします。

そんな時に、「むしろ、あなたが生きる意味を問いかけられているんですよ」とフランクルの名言を引用されても、「生きる意味がわからない。幸せになれない」その事実がすべてであり、簡単に誤魔化すことはできません。

確かに、生きる意味は、人から押し付けられるのではなく、自分自身で見出してこそ価値のあるものではあります。

しかし、生きる意味の具体的な発見方法は?というと、誰も知らない、教えてくれないというのが現状なのではないでしょうか。

夢中になれるものがなかったら、人生に意味はないのですか?

よく、クリエイティブな人生を送っている人にインタビューして、生きる意味を聞くような記事を目にします。

そのような時に、「自分は目的など考えてはいない。ただ目の前の一瞬、この感覚自体が答えだと思っている」と言うように答える人が多いように感じます。

ある行為に集中して、その瞬間瞬間に没頭する。そのような時間は、問答無用で生きている実感を沸かせてくれます。

ですが、例えばもし山登りを生きがいにしている人が、病気や怪我などで一切出来なくなってしまったら、どうなるでしょうか。

また、そもそも障がいなどで、歩いたり、考えたりすらうまくできない人は、生きる意味の可能性が最初から閉ざされているのでしょうか。

言い方が悪いですが、「〜があれば幸せ」「〜がなければ自分は生きていけない」と言うように、外部の何かに依存した生きる意味というのは、いずれ脆く崩れ去ってしまうのではないかと思います。

この世界は常に目まぐるしく変化し、どんなものでも、自分のうちにいつまでも留めて置くことはできません。自分の体ですら、いずれ動かなくなり、死と同時に手放すことになります。

私たちが求めている生きる意味は、そういった外部の環境に左右されるものではなく、決して変化せず、人間であれば誰もが享受することができ、それを胸に抱けば魂から安らげるようなものです。

それが単なる「人それぞれの価値観」で済む話ではないことは明白だと思います。

同じ人間なのに、共通の生きる意味は本当にないのですか?

日本人を例にあげても、十人十色、様々な価値観を持っていて、それぞれライフスタイルも違います。

ですが、例えば植物をイメージしてみてください。

それぞれの葉は多種多様に実を結びますが、決して単体では生きていません。

そこにエネルギーを送っている枝があり、さらに枝は、大きな太い幹からエネルギーを受けており、その幹は根に続いて、大地から全てを汲み出しています。

これを人間に置き換えてみましょう。

私たちは、普段意識しませんが、動物に生かされ、植物に生かされ、水に生かされ、太陽に生かされ、地球に生かされ、宇宙に生かされているはずです。

これらのエネルギーはどこからやってきたのでしょうか。

そして、人間のこの素晴らしい体は、心は、意識は、なんの力で動いているのでしょうか。

生きる意味を考えるとき、枝葉の価値観に目を向けるのはなく、自分自身、そして人間を支えるもの、根源を思い描いてみると、とても人それぞれという話では片付かないことに気がつくと思います。

私たちが自分単体で生きていない以上、きっと一人で完結するような生きる意味は存在しません

葉っぱが「自分は自分の道を行く」などと言って、枝から離れてしまっては、いずれ枯れてしまうことでしょう。

そうではなく、人間という存在の根源を辿った先にある「何か」こそが、全ての人間を支えているのであり、皆が心の奥底で本能的に求めている「生きる意味」そのものではないかと、今では思っています。

心理学・哲学・宗教の生きる意味では幸せになれない理由

社会の提示する「生きる意味」では納得のいかなかったあなたは、おそらく次に、心理学や哲学、宗教などの世界を探求し始めることでしょう。

かくいう私自身も、世間で言うところの生きる意味に疑問を持ち始めた後は、ひたすら心理学・哲学・宗教の研究に没頭することになります。

大学の図書館にこもったり、宗教の会合や祈りに参加したりなど、自分の乾きを癒すコンセプトを、数年間探求し続けていました。

しかし、そこで学んだ知識のほとんどが、本当の幸福に出会った今の自分には必要のないものとなり、さっぱり捨て去ってしまいました。

ここまでいうと、もはや味方が誰もいなくなってしまいますが、以下の理由を聞けば、多少納得する点もあるのではないかと思います。

知識は得られても、実際に自分が幸せになれていない

何より、宗教や心理学などの知識のみでは、人は決して幸せになれないということが、もっとも大きな理由でした。

たしかに、新しい考え方を学び始めた当初は、私は水を得た魚のように胸がときめき、希望にみなぎりました。

プラトンの本に触れたときは、これで自分は必ず幸せに生きられるはずだと確信しました。

ですが、いざその興奮が過ぎ去ってみると、心は前と変わらず、凡人で、いつもの曇り空のような自分でした。

もちろん、以前よりは、人に「よく考えて生きているね」と言われるほどになりましたが、それは所詮は「絵に描いたモチ」です。

宗教や哲学、心理学の知識を得たからといって、自分自身が悟ったわけではなく、そのことで永続的な幸福感を得ることはできなかったのです。

結局のところ、私自身も、まるで自己啓発のように、勉強しては気分が盛り上がり、下がってきては別の本やセミナーを読む、その繰り返しをしていただけに過ぎませんでした。

最初のうちは、学んだ知識をひけらかし、悟ったかのように振る舞うことで満足しましたが、それは一時的な気分の盛り上がりに過ぎなかったのです。

むしろ、だんだんと人は離れていき、残ったのは「私の考えは誰にも理解されないのだ」という独りよがりのプライドと、行き場のない孤独感だけでした。

この記事を見ていらっしゃる方も、様々な知識・教養を持っていると思います。

しかし、自問してみてください。

あなたは今本当に幸せでしょうか?

あなたがいま大事に抱えている信念や教えといったものは、あなたを幸せにしていますか?

少しでも疑問がわいたら、今の状態に安住せずに、もう少し真理について追求する気持ちを持ち直してみてください。

本当に大事なものは、今大事に抱えているものを手放さなければ、手に入らないかもしれません。

無理していい人のフリをしても、自分の本質は絶対に変わらない

様々な宗教や、自己啓発は、人がどう振る舞うべきかを教えてくれます。

そして、多少無理してでも、その通り行動することで、一時的に周囲の人の好感を引き寄せたり、仕事で高いパフォーマンスを発揮できるようになることもあるようです。

ですが、私がそういったものに熱心な人と会話をした時、正直なところ、以下のような感想を抱いてしまいました。

  • 価値観を押し付けられているような感じがする
  • 一時は盛り上がっているけど、落差が激しい
  • よくよく話を聞くと、何かしらの闇を感じる

※偏見が含まれます。気に触る方がいらっしゃったら申し訳ございません。

特に近年は、理想の人物になるために、本当の自分を押し殺してでも、無理して頑張ることが必要だ、といった考えが正当化されているような気がしています。

私自身も、このやり方で頑張っていた時期もありましたが、事態は前向きになるどころか、むしろ悪いことが立て続けに起きたり、後から疲れがドッと押し寄せてきて体調を崩し、暴飲暴食をしてしまうことも多々ありました。

また、相手に好かれるために、思っていることと逆のことを言ったりするので、自分も相手も違和感を感じてしまうような、不自然な人間関係になっていたと思います。

このようなことを繰り返しても、自分の生活、人間関係が良くなるはずもなく、結局途中で投げ出してしまいました。

今振り返ると、私が熱中していた宗教や自己啓発の本・セミナーは、人間の本質を変えるような力は持っておらず、むしろ、本当の自分を抑圧する習慣を刷り込んで、心の真の成長を遠ざけてしまっていたのです。

考えてみれば、いくら思い込みでキラキラした仮面をつける練習をしても、ドロドロとした自分の本質が変わらないのは当然のことです。

その結果、自分と同じ質のよくない現象を次々と引き寄せてしまい、不幸になるのも十分ありえる話かと思います。

素晴らしい教えも、執着と依存の道具になってしまった

宗教は、どこも素晴らしい教えを説いています。

それらは、偉人たちが真理を求めて求めてたどり着いた、いのちの結晶です。

ソクラテスや、イエス・キリスト、ブッダも、自らの実践と経験を通じて、私たちに生きる指針を与えてくれました。それらは、間違いなく真理です。

問題は、真理を説いた偉大な先人たちは、もう亡くなっているということです。

言葉や文字は残っていても、そこに魂を吹き込める存在がいないのです。

例えば、聖書のことば一つとっても、宗派によって解釈は違っており、極端な捉え方をして、戦争の口実に利用されることもあります。

また、「私は聖書に従い、清く正しい生活をしている」という人も、見えないところで鬱憤を晴らしていたり、幸せそうに見えないことがあります。

もし、キリストやブッダが現代に生きていたら、もしくは、そのクオリティを一人でも受け継いでいる人がいたら、果たしてこんなことが起きるでしょうか。

きっと彼らなら、一言も発さなかったとしても、存在によって、すべてに愛と平和をもたらしていたのではないでしょうか。

そのような偉大なマスターを失い、魂を吹き込む存在がいなくなってしまった教典は、枝から離れた葉のようなものかもしれません。

葉はやがて枯れて、地に落ち、ゆっくりと大自然に還っていきます。それが自然の摂理です。

しかし、私たちは、その枯れ葉に対して、「救われたい」という気持ちから、自分のエゴや執着をたくさん押し付けてしまったように思えます。

そうした重い泥に絡め取られた葉は、枯れることもできず、ついには腐っていってしまいます。

このような強いエゴのエネルギーは簡単にはなくならず、火山のマグマのように蓄積されていき、いずれは社会現象として、表面化が起こります。

その結果、オウム真理教など、聖なるものをエゴに利用するという、最大の禁忌を犯す団体まで生み出してしまったのかもしれません。

現在でも、そこまで極端ではないにせよ、真理の教えを利用してエゴを膨らませる団体は少なからずあるのではないかと思っています。

社会に溢れる生きる意味では幸せになれない理由のまとめ

  • 一つ目の理由は、世の中の「生きる意味は人それぞれ」という共通の価値観が、かえって生きる意味に閉塞感(無意味感、どん詰まり)をもたらしている可能性があること。そして、多種多様な枝葉の価値観に翻弄され、本来の自分自身について探求する機会が少なくなっていること。
  • 二つ目の理由は、宗教・哲学・心理学の一見正しそうに見える行動や考え方も、人間という存在の「かさぶたをいじっている」ようなもので、本質的に人を変容させる力を持たないこと。

このような事実に気づいた私は、さまよい疲れたあげく、自分を満足させてくれる生きる意味など、どこにもないことを実感させられ、絶望しました。

ですが、今振り返ると、絶望し、全てを失うような経験があって、私は一回死に、そして新しい自分に生まれ変われたのではないかと思います。

本当の生きる意味に出会うただ1つの方法

その後、私が様々なご縁によって最終的に導かれたのは、ヨグマタ相川圭子さんでした。

ヨグマタ相川圭子さんは、サイエンス・オブ・エンライトメントという、瞑想・ヨガの道場を主宰している方で、サマディ(悟りの最終段階)に到達し、最高の瞑想指導者としてインド政府から公認された大聖者です。

・・・いきなりこう言うと、血迷って変な新興宗教にのめり込んだようにも見えるかもしれません。

かくいう私自身も、最初は戸惑いがありました。

これは、結局依存しているのではないか、教祖に大金を搾取される、かわいそうな人たちの一員になるのではないか。

そのような色々な疑いを経て現在にいたりますが、今では全ての疑いが晴れ、確信をもって、断言できます。

「ヨグマタは真理そのものであり、愛そのものです。人の見えない内側をすべてを知り尽くした、偉大なる、尊敬すべき大宇宙のマスターです。」

かのプラトンは、「善そのもの」とは何か、ということを一生をかけて追求しました。

しかし今、目の前にそれを体現して、太陽のように恩恵を降り注いでくださる方がいらっしゃるのです。

ヨグマタ相川圭子さんは何が違うのか

ヨグマタ相川圭子さんの道場では、心の曇りを取り除き、悟りに向かうための瞑想プログラムが用意されています。

プログラムでは、知識は全く必要ありません。

むしろ、これまで必死に集めてきた価値観や知識への執着を捨てて、卒業していく教えです。

通常、大事にしてきた思いほど、捨てるのに抵抗が生じるものですが、相川圭子さんの元で修行を進めると、それが自然と「外れて」いってしまうのです。

これまでずっと荷物を背負って生きてきた人は、それがガバッと外れると、「ああ、いままで自分はこんな重いものを背負っていたのか」と気づくと思います。

それだけ、プログラムによって、軽やかに、しかも楽に人生が変わっていってしまうのです。

このように、実際に自分が変容して純粋になり、心が軽くなり、愛が溢れてくるようになるプログラムは、他には間違いなく存在しません。

私はヨグマタ相川圭子さんに出会い、本当に人生が楽になりました。

周りの人たちのために、愛を捧げることが幸せです。大きな存在にいつでも守られ愛されて幸せです。

真理はとてもシンプルでした。

しかし、それではエゴが納得できなかったために、じめじめと思考による分析を巡らせていました。それが、全ての間違いだったのです。

マインドという、価値観・思考そのものが、人を裁き、違いを責め立てる原因になっていたのです。

それよりも、すべてを愛と感謝で迎えること。目の前の人の幸せを祈り、善行を捧げること。大いなる存在を信頼して、お任せすること。

そちらの方が、どれだけ有意義で美しい生き方でしょうか。

それは、依存でも、盲目的な崇拝でもありません。ただ、真理を生きているだけなのです。

最高の幸せに至る偉大な道

ヨグマタ相川圭子さんは、すべての人が幸せになるための指針を示して下さっています。

それは、まず第一に、私たち自身がしっかりと瞑想を続けることで、内側の平和を手にし、本当に幸せになることです

自分が幸せになれば、悟りへの道、自己実現への道をよりいっそう信頼して歩めるようになるでしょう。

そして、今度は、そうして得た愛と知恵とパワーを、周りの人たちと分かち合います。

すると、周囲のレベルも自然と引き上がって、良い波動が日本、世界とどんどん広まっていきます。

そうして私たち一人一人が、本当の自分自身、大いなる存在につながり、捧げる生き方を実践することで、世界中に穏やかな愛と平和が満ち満ちていくのです。

私たちは、大いなる存在から尊い命をいただいた代わりに、このような幸福な世界を実現させる義務があります。

この宇宙規模の壮大な計画のために、自分を捧げることは、とても幸せなことです。

そのために、今この時代に生命をいただきました。

「生きる意味」への特急券を、今すぐ掴んで欲しい。

論理や理屈を超えたところに、まだ私たちが預かり知れない、見えない世界があります。そこから私たちは生まれ、いずれ還っていきます。

その世界に到達した偉人たちは、私たちのために、最初に道を開いてくれました。

そして、現代では、ヨグマタ相川圭子さんがその道をさらに進化させ、宇宙の最高傑作ともいえる、瞑想のプログラムを用意して下さったのです。

このサイトを訪れた、私とご縁のある人たちには、真の幸福に向かう特急券を、できるだけ早く掴んでいただきたいと思います。

もしヨグマタ相川圭子さんについて、少しでも縁を感じていただけたら、ぜひご本を読んでみてください。現在40冊以上が出版されています。

さらに、実際に話を聞いてみたいと思ったら、一般の方に向けた講演会に出てみてください。カルチャーセンターなどで、定期的に開催しています。

そこで、直観が優れていらっしゃる方は必ず確信すると思います。ああ、これが本当に自分の魂が求めていたものだと、紛れもない、生きる意味だと。

その後は、あなた次第ですが、真理を志す人は、心を決めて入門してください

多少勇気がいる要素もあります。それは、世間の目であったり、心理的な問題もあるでしょう。

不安感や疑いが大なり小なり浮かんでくるのは、決しておかしいことではありません。

最後の最後に、信頼を持って一歩踏み出すことができれば、きっと大きな流れがすべて導いてくれるはずです。

ぜひドン!と、真理の世界へ足を踏み入れてください。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

あなたが真理に結ばれ、魂に結ばれ、大宇宙に結ばれて、本当の幸せを手にできるよう祈っています。

※この記事で収入を得ることは一切ありません。

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