ここ数年前から、主に若い人の間で、人との交流を持たずに、一人で行動している人のことを「ぼっち」というように呼ぶようになりました。
もっと昔から、そういう一人で活動する人は一定数いたのではないかと思いますが、最近では特に「ぼっちは友達のいない、寂しそうで可哀想な人」というようなネガティブなイメージで見られることが多いように思います。
かくいう私自身も、中学、高校、大学とぼっちを経験してきて、その寂しさ、孤独感、焦燥感などを身をもって知り尽くした経験があります。
友達や恋人ほしさに、色々な過ちや依存、人を傷つけるようなこともしてきました。それだけ、当時は本当に必死だったなあとしみじみ思います。
今、私は社会人になりましたが、客観的にはぼっちであることに変わりありません。
ですが、過去の私と大きく違うのは、今の私の中に辛いという感情は一切なく、むしろ満足感と幸せで満ちているということです。
このような、一人でも充実している人のことを「ソロ充」と呼ぶそうですが、本当に全く何もしていなくても、不思議と幸せを感じることができるのです。
今回の記事では、そんな私が、ぼっちに悩む人の生きづらさが解消され、人生を楽しく、幸せなものにする具体的な方法をお伝えしていこうと思います。
ぼっちの特徴(私の大学一年生時代)
まずは、私自身がどれだけぼっちを体験し、知り尽くしてきたかということを、論より証拠ということでお話ししようと思います。
歴史は中学生から遡るのですが、ここでは、人生でも一番辛かった大学一年生の私の生活を挙げてみます。
- 高校時代、孤独に耐えて受験に成功し、志望していた大学に晴れて入学する
- 大学入学後、しばらくは色々な人からちやほやされ、生活に希望を持つ
- 6月になり、新入生歓迎シーズンが終わると誰からも声をかけられなくなる
- 入学当初に行動を共にしていた友達が、だんだんと別の居場所を見つけ、離れていく
- このままではまずいと焦りが生じ、サークルの飲み会に参加する
- 参加したはいいものの、席の端っこの方にいてあまり話さず、絡みづらい雰囲気を醸してしまう
- 居づらさのあまり、なんとか知り合いに話しかける
- しかし、心なしか知り合いの態度は冷たく、話もほとんど続かない
- しまいには、目の前でスマホをいじり始める
- 気づけば誰もが自分への関心を失っていることに気付く
- 集まりが終わると、結局疲れるばかりか、寂しさがさらに強くなっている
- さらに人恋しくなり、寂しさを埋めるため、別のサークルの集まりにも参加する
- しかし、友達といえるような一体感を感じることができず、打ち解けた間柄になれない
- その原因が、自分の基準でリア充感のある友達を選別し、そうでない人は内心見下しているせいだということにも気づかない
- そんな辛い状況の中、自分に優しくしてくれた異性に関心を持つ
- 恋愛経験がないため、不自然に積極的になってガツガツしてしまう
- 引かれるばかりか拒絶されてしまい、深く傷つく
- もともとの生活態度もあり、周りの見えていない危ない人として噂が広まる
- その事実を暗に知らされ、本当に死にたくなる
- 必死になるほどどうすればよいのか分からなくなり、さらに不安感と焦燥感が強くなる
- 結局ほとんど人間関係を持たない中、夏休みに突入
- 遊びに行く友達はおらず、一人暮らしのため、人と話さない時間が長すぎて気が狂いそうになる
- 精神的な不調を自覚し、心療内科に駆け込む。薬を処方されるが、強い不安感は全く消えない
- しばらく地獄のような日々が続く
- 唯一の救いは、徐々にその状況が慢性的になり、抑圧・麻痺状態になってきたこと
- 飲酒や、アニメ・漫画・ゲームなど空想の世界に没頭して、何とか自分をごまかす術を覚える
- 死んだように一人で大学一年生を過ごす
いかがでしたでしょうか。
お腹いっぱいかもしれませんが、以上の例は私のぼっち体験のごく一部に過ぎません。寂しさや不安感のあまり、ここではいえないような恥ずかしい体験も色々としてきました。
私よりも辛い状況の人もいるかもしれませんが、少なくとも「こんな人でも幸せになることができるんだ」というように安心してもらえたら嬉しいです。
また、お分りの通り、ぼっちは、一人でいる状況というよりは、一人でいることに不安や寂しさを感じている状態であると思っています。
根がぼっちであるのに、寂しさや見栄のために人付き合いをしている人を「キョロ充」というように表現することもありますが、こちらの生き方も非常に辛いものがあります。
寂しさのあまり、ぼっちに振り切ることができず、かといって友達も恋人もうまくできないのですから、一体自分が何なのかも分からなくなってくることでしょう。
このような状態から、一体どのように生き方を転換していけば、生きることに希望を持つことができるのでしょうか。
打開策1.頑張って居場所を作る
自分がぼっちであることに気づいたあと、それを打破するために取りうる行動は大きく分けて二種類あります。
そのうちの一つは、苦しみに耐えながらも頑張ってコミュニティに参加し、なんとか自分の居場所を見つける方法です。
幸い、どんな人であっても、場所を選ばずに数を打っていけば、自分にフィットする環境は見つかるものです。
私も試行錯誤してきましたが、友達や居場所を作るという意味では、以下のような方法がベターであるかもしれません。
グループと接点だけは持っておき、在籍し続ける
ぼっちである人は、友達が欲しいあまり、すぐに距離を詰めてしまうことがありますが、普通、人と信頼関係を築くのにはそれなりの時間がかかるものです。
また、サークルや団体は人数も多く、少し飲み会に参加した程度で気が合う人がいるかどうかを判断することはできないでしょう。
そのため、数回の参加で「ここはダメだ」と諦めるのではなく、とりあえず籍を置いてとき、ちょくちょく顔を出し続けるということも必要かもしれません。
最初は印象が薄くても、何回も顔を合わせているうちに、お互いの雰囲気がだんだんと分かり、親しみが湧いてくるものです。
そうしているうちに、意外にも自分と同じような価値観を持つ人が見つかり、打ち解けた間柄の友達ができる可能性も生まれることでしょう。
とはいえ、友達づくりで無理は禁物です。
自分がそのコミュニティにいることで明らかに疲弊していると感じた場合は、精神衛生のために、別のコミュニティを探しましょう。
自分と似た価値観を持つ人が集まるコミュニティを広く探す
たとえば、学校のような閉じた環境にいると、その学校の人間関係が全てであるように錯覚してしまいがちです。
そのため、学校でイジメなどにあうと、社会のすべてから拒絶されたような気持ちになり、絶望してしまうのかもしれません。
ですが、実際のところ、学校はほんの一時的な社会生活の場にすぎず、日本、世界にはもっと色々な人や出会いがあります。
例えば、学校以外の身近なコミュニティでいうと、外部のクラブやサークル、習い事があるでしょう。
もし趣味や特技があるなら、そうしたものを接点にして、グループに入って行くことがスムーズです。
学校以外のコミュニティと接点がなかった人は、新しい環境に踏み出すのに少し勇気が必要かもしれませんが、その一歩で生きる希望を取り戻すきっかけにもなるでしょう。
ボランティア活動に参加する
ぼっちである人は、居場所が欲しいとは願いつつも、基本的にコミュケーションがそこまで好きではない傾向があるのかもしれません。
その場合、普通のクラブやサークルでは、やはりおしゃべりがうまい人が人気になるので、馴染むのに時間がかかる場合もあるでしょう。
そこで、おすすめするのが、ボランティア団体に参加することです。
ボランティアでは、何かのために皆で活動をすることが目的なので、おしゃべりが上手でなくても、堂々と所属することができます。
また、ボランティアをするような良い人たちが集まっているので、基本的に心優しく接してくれることでしょう。
そして、ボランティアの何よりのメリットは、自己完結的な活動とは違って、エネルギーが健やかな解放の方向に使われることです。
家でエネルギーを持て余して、ジメジメとした方向に使うなら、このようなクリエイティブな使い方をした方が、後で何倍も良い結果につながるでしょう。
唯一の注意点は、ボランティアものめり込み過ぎると疲れてしまうので、マイペースさを保ちながら、ゆっくり続けていくことが大切になります。
以上、三つの活動を地道に続けていけば、どんな人でもしっくりくるコミュニティを見つけることができるはずです。
新しい出会いに最初はストレスを感じるかもしれませんが、場数を踏むことで少しずつ慣れていくので、決して無駄な体験にはならないでしょう。
居場所を見つけるだけでは、満たされない
さて、ここまで、居場所を作る方法をお伝えしてきましたが、実はそれだけではあなたの心を満たすことができない場合があります。
自分にマッチした環境を見つけられることも大事ですが、それと同時に、以下のことを理解しておかなければなりません。
人間関係は常に移り変わる
親友や恋人がいることで、安心感を覚えるかもしれませんが、そうした安心感は、外部に依存した一時的なものであるかもしれません。
実際に、親友と呼ばれる間柄であっても、つまらない喧嘩や卒業をきっかけに、縁が遠くなっていくこともあります。
また、恋人を作れたとしても、今度は逆に失ってしまうことを恐れて、相手の行動に一喜一憂し、心が振り回されてしまいます。
さらに長い目で見ると、結婚によって好きな人と結ばれたとしても、いつかは残念ながら飽きや倦怠感が訪れます。
本当はそこからが愛を深めるチャンスなのですが、多くの人がそこで「私は愛されなくなった」と勘違いして苦しむことになります。
このように、親友や恋人がいることに越したことはありませんが、それらに心が振り回されてしまうのであれば、結局は苦しい人生になってしまいます。
友達や恋人と過ごすひとときはかけがえのないものですが、それは永遠ではないという現実も、あらかじめ理解しなければなりません。
自分が変わらなければ、周りの環境も変わらない
ぼっちに苦しんでいる人は、やはりそれだけの理由が自分の中にあることを自覚しなければなりません。
例えば、あなたは以下のような特徴に当てはまっていないでしょうか。
- 繊細で傷つきやすい
- プライドが高く、人をよく批判する
- 寂しさ・人恋しさが止まらない
- ネガティブな考えで頭がぐるぐるする
- 人を好きになると依存してしまう
こういった特徴は、元々の本人の素質のほかに、社会生活で何とか生き残るために培われてきたキャラクターであるともいえます。
どんな形であれ、それは一つの素晴らしい個性であるのですが、現実問題、やはりどこか偏りがあって、ネガティブな方向に歪んでしまっているようです。
当たり前の話ですが、こうした自分の内面の問題を放置した状態で、どんなに努力しても、意図せず人を傷つけたり、人間関係の失敗が多くなってしまうことでしょう。
そして、その失敗によって、さらにネガティブな感情を持ってしまうという、負のループにはまってしまうこともあるかもしれません。
自分にフィットする居場所を探す一方で、自分自身の心の課題を少しずつ解消していくことで、多くの人に自然に愛される人になることができるのではないでしょうか。
打開策2.自分の内面と向き合い、磨いていく
ここまでお話しして勘付いた方もいると思いますが、ぼっちを打破するもう一つの道とは、自分の内側、心にある様々なトラウマや偏りを解消していくこと、そして、一人でいて深く安らぐ方法を学ぶことです。
外部の環境を整えるだけではなく、自分自身のあり方を変えて行くことで、見える世界がより根本的に変わっていくのです。
具体的には、以下のようなぼっちになることができたら、それは誰からも尊敬を集める、素敵な人と言えるではないでしょうか。
- 何にも依存せず、深い安心感で満ちている
- 一人でいたとしても誰も違和感を感じず、むしろ素朴な親しみを覚える
- 話しかけると自然な笑顔で朗らかに反応してくれる
- 誰かが困ったときにはさっと優しさを差し伸べて、親切にできる
- 必要があれば、場の雰囲気に合わせた気の利いたことを自然と言える
- その人がいてくれるだけで、周りの人が不思議と和み、安心できる
このようなナチュラルな人は、偏見を持たず、クリアな視野で場の空気を感じ取ることができるので、TPOをわきまえた言葉や態度も自然と出てきます。
結果として、一生懸命自分から交友関係を持とうとしなくても、花にハチが寄ってくるように、向こうから人がどんどんと寄ってくるのです。
かといって、人間関係にどっぷり浸かるわけでもなく、ほどよい距離感をたもち、依存をすることもされることもありません。
堂々と一人で安らぐ姿を誰もが認め、生き方のひとつとして尊重されるのです。
こうした人物になるために、ただコミュニティを広げるだけでは限界があることが明らかだと思います。
自分の内面を磨く一般的な方法
それでは、このような理想のぼっちなるために、具体的にどのような方法があるでしょうか。
内面を変えると聞くと、一般的には以下のような方法が浮かぶかもしれません。
- 心理カウンセリングやセラピーを受ける
- 自己啓発セミナーに参加する
私自身も心理カウンセリングに通い、抑圧してきた思いを話すことで精神的に楽になった部分もあるので、もし何かのトラウマを抱えているなら、一度検討されるのも良いかと思います。
また、エネルギーがダウンしている人にとっては、自己啓発も時には必要なことがあるでしょう。
しかし、これらを行い続けても、限界に気付く時がきます。以下のような兆候がみられたら、一度立ち止まらなければなりません。
- 一時的に元気になるが、依存してしまっている気がする
- 躁鬱のように盛り上がりと盛り下がりが激しくなってきた
- 人や自分をジメジメと分析する癖がついてきた
- 思い込みでいい人になろうと頑張る内に疲れてきた
- 人として成長している実感が薄い
心理学や自己啓発を学ぶことで、一時的には安心感をもらえるものの、傾倒しすぎると、今度は逆に強い思い込みや心の癖がついて、余計にこんがらがってしまうことがあるのです。
現代では思い込みであっても心を改善しようとすることが正当化されがちですが、それは本来の自分の抑圧につながって、かえって漠然とした不安感を大きなものにしてしまうことがあります。
人はうわべの自分を変えようと努力しますが、元々人の深いところは純粋で素直な、愛にあふれているパワフルな存在です。
そのため、むしろ自分の心にくっついている余計なものを取っていけば、頑張らなくてもいい人になることができるのです。
そんな方法があるの?と思うかもしれませんが、それはすごくシンプルなことです。
シンプルすぎて、むしろその価値が分かりにくいのですが、そのことで、あなたの深い本質的なところから自分を変えていくことが可能なのです。
ソロ充になるための最高の方法は「瞑想」
ここまで、長々とぼっちについて考察をしてきました。
ここで、いよいよ、一人でいて満たされることのできる、具体的な方法をお伝えしようと思います。
私が皆さんにおすすめするその方法とは、瞑想です。
一度は聞いたことがあると思いますが、実際にやったことのある人は少ないかもしれませんね。
瞑想は、実にシンプルな行為で、基本的には、ただ目を瞑って座るだけです。
試しに一分間、目を閉じて何もしないでいてみてください。
きっと、様々な考えが浮かんでは消え、あるいは過去にされた嫌な記憶がぐるぐると頭の中で繰り返されるかもしれません。
それが紛うことなきあなたの心の中の状態であって、静かであることもあれば、不安や葛藤で騒めくこともあるでしょう。
瞑想とは、こうした心の微細な動きに気づき、その上で順次思いを手放し、無になっていくという営みなのです。
最高のソロ充は、悟りの人
瞑想がぼっちとなんの関係があるか、と疑問に思われたかもしれません。
要するに、瞑想によって悟りに近づくほど、一人でいて満たされる究極のソロ充になっていく、ということなのです。
例えば仏教の始祖であるブッダは、言い方は失礼かもしれませんが、最高のソロ充であると思います。
ブッダは、妻も財産もある一国の王子でしたが、悟りのため全てを捨てて出家し、一人で苦行や瞑想に取り組みました。
そして、ついに菩提樹の下で悟りを開き、もはや一人でいて何の憂いも苦しみもなく、何もしなくても最高に幸せである状態を手に入れました。
その後は、自分が得た愛と智慧とパワーを周りの人にシェアし、誰からも尊ばれ、現代でも多くの人の信仰を集めるまでになったのです。
そういう意味では、これまで私がお伝えしてきた理想的なぼっちとは、まさしくこのブッタのような存在です。
もちろん、悟りまで至ることは並大抵ではないのですが、瞑想によってその道を辿ることで、何にも依存せず、自分自身を満たすような方法が身につくのではないでしょうか。
瞑想には正しい師が必須
そんな瞑想ですが、気をつけなければならない点がいくつかあります。
以下の記事でも紹介していますが、自分の間違った解釈や、エゴの心で瞑想を行うと、とんでもない方向に行ってしまい、精神がガタガタになってしまうこともあります。
近年はマインドフルネスなど気楽に瞑想に取り組む人も増えてきましたが、指導者なしに一人で深い瞑想には入ることは控えた方がよいでしょう。
とはいえ、瞑想をどこで習えばよいかというと、皆目検討がつかなくなってしまいます。
瞑想という目に見えないものを扱うため、怪しい団体が多く存在することも確かなのです。
また、一見しっかりしていそうなお寺で瞑想したからといって、それが内面性の成長につながるかといったら、そうでもありません。
以下の記事で紹介している通り、私は仏教の方法で瞑想をしたことがありますが、そこに人を本質的に成長させる力はあまり込められていないのです。
私は、このように散々回り道と苦労してきたのですが、同じ苦労をあなたにしてほしくありません。
そこで、もし瞑想を習うならこの人、という人をご紹介します。
悟りのメッカ・インドで認められた日本人の大聖者
もしあなたが瞑想を始めるのであれば、私は唯一、ヨグマタ相川圭子さんをおすすめします。
最近ではテレビやラジオにもよく出演されるので、聞いたことがある人もいるかもしれません。
ヨグマタ相川圭子さんは、日本人、また女性として初めてサマディ(仏教でいうニルバーナ、涅槃)に到達した人として知られており、インド中で国民の尊敬を集めています。
日本にも自分で悟ったという人は多いため、「この人は本当に悟った人なの?」と思われるかもしれません。
ですが、相川圭子さんは、インドにおいて悟りを大々的に認められた、非常に稀有な人なのです。
インドでは、悟りを開いた聖者は、公開サマディと呼ばれる、四日間空気のない地下室で飲まず食わずで瞑想を行うという大変困難な行を行います。
過去に死者も出たこの行は、現在はインド政府が公認したごくわずかな聖者しか行うことができません。
ヨグマタ相川圭子さんは、この過酷な行をなんと18回も完遂し、一気にインド中の人々から祝福を受ける存在になったのです。
その時の様子が動画でいくつか上がっていますが、公開サマディ終了後、四日間閉じ込められていたとは思えない元気な姿に、私も驚きを隠せませんでした。
そのような、常人ではなし得ない奇跡と、インドにおける多額の寄付などの社会活動があって、ついにはインドのナレンドラ・モディ首相と個人的に対談するほどにもなりました。
2018年の5月にも、TBSのテレビ番組「マツコの知らない世界」に出演し、その様子が映し出され、マツコさんにも直接瞑想の指導を行いました。
日本では過去に危険な教団が事件を起こしてきた背景があるため、瞑想についてテレビで大々的に放送することは滅多にありません。
それにも関わらず、ヨグマタ相川圭子さんの日頃の活動と実績、嘘のない自然で素朴な人柄が信頼され、放送にいたったのだと思います。
そんなすごい瞑想の先生であるヨグマタ相川圭子さんですが、なんと今日本にいて、直接瞑想を指導してくださっています。
本来、インドで瞑想三昧の日々を送っていてもおかしくないのですが、日本人が少しでも幸せになるようにと、私財を投げ打って道場を建て、指導を始めたのだそうです。
ヨグマタ相川圭子さんの瞑想を始めた結果
私自身、さまざまな心理学や自己啓発、宗教のセミナーに出てきましたが、ヨグマタ相川圭子さんとの出会いがあってからは、それらは一切必要がなくなりました。
本当の悟りのマスターであるヨグマタ相川圭子さんからいただく瞑想は、素晴らしいの一言で、その瞑想をコツコツと続けるだけで、生きるのが確実に楽になっていきました。
これまで、一人でいることが怖いと思っていたのに、一人で瞑想している時間が、私にとって一番の幸福であることに気づきました。
また、自分はそのままでいて愛や安心で満ちている存在であり、外に探し求めなくても、元々全てが内側にあったということにも気づいていきました。
すると、寂しさを感じることが少なくなり、人に依存することや、無闇に深入りすることをしなくなりました。
むしろ、人から離れて一人でいる時こそが嘘のない自分自身であり、憂いも葛藤もないのです。
このように自分が満たされる一方で、人のことを平等に、深く愛せるようになっていきました。
一つの関係性に執着することがなく、人の好き嫌いもなくなり、全ての人に信頼を持って、自由に接することができるのです。
私がこれまで抱えていた人間関係の課題は、ほとんど全て無くなっていきました。
ちょうどよい感じで、付かず離れず、一番お互いが尊敬を持てるような、居心地のよい距離感を持つことができるようになったのです。
私は今でも一人でいることが多いですが、そのことに対して誰も疑問を持ちません。私が自分でそれを選んで、内心楽しんでいるからかもしれません。
私だけではなく、全ての寂しさを抱える人が、このように自由で解放的な生き方を知っていただきたいと、今では強く願っています。
嘘のような本当の体験。だから、今すぐ始めてほしい
ここまで、ヨグマタ相川圭子の瞑想についてお話ししてきましたが、これらは実に本当の話なのです。
その他にも、ヨグマタ相川圭子さんの瞑想によって、私は色んな効果を実感してきましたので、そちらは以下の記事にまとめています。
これらの効果は、盲信による思い込みや、一時的な気分の盛り上がりではありません。
自分自身が本質的に変容するプロセスを、自分で実感できるということが、他ではまずありえないことです。
さらに、ヨグマタ相川圭子さんの瞑想は、人によって効果がないということがありません。
コツコツ続ければ必ず成果が現れるという再現性があり、まさしく悟りの科学であると思います。
あなたが今どのような辛い境遇にあったとしても、そこから抜け出るもっとも最善の手段として、この素晴らしい瞑想の道をおすすめします。
毎日ほんの少しの時間をさいて続けていけば、数年であなたの寂しさや不安感、また、様々なトラウマが取り除かれ、軽やかな人になれることを、私が保証します。
まずは、ヨグマタ相川圭子さんが各地で開催している講演会や入門会に参加してみると、その優しくて、不思議と安心する雰囲気にピンとくるかもしれません。
多くの人にとって未知の世界であるかもしれませんが、自分の内側の神秘を発見する冒険だと思って、ぜひ一歩進んでみてください。
あなたが寂しさや孤独感から解放され、深い安心と愛で満ちて生きれますよう、心よりお祈りしています。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。