仏教は、僕が最初に救いを見出した宗教の一つです。
当時、人間関係も仕事もがうまくいかなかった僕が、本当に幸せになるのはどうしたら良いのかを深く考え始め、図書館でスッタニパーダを読んだのがきっかけでした。それ以来、食い入るように日々図書館で本を読み漁った記憶があります。
僕の大学はミッション系でしたが、キリスト教の「神を信じる」という考えがどこか依存的に感じていたため、反対に仏教の「自力で修行して悟る」というスタイルに共感を感じていたのかもしれません。
さて今回は、そこまで仏教に熱心だった僕が、「なぜ仏教を去ったのか」というテーマで記事を書いてみました。
少々極端なことを書いている自覚もありますが、悟りを本当に目指す時に、現代の仏教の示す方法のみでは、それが現実的に不可能だと感じてしまったのです。
今では、幸福なことに、心から信頼でき、実際に自分も幸せになれる本当の教えに出会うことができたので、そこで悟りを目指して修行に取り組んでいます。
そこで、今回はある種の決別の意味も込めて、仏教を去る決断に至った理由をいくつか紹介したいと思います。
※この記事は、私自身の体験に基づいて書いた、個人の考えに過ぎません。また、体験も価値観も人それぞれなので、決して全ての人の合意が得られる内容ではありません。その点をご了承の上、読み進めていただければと思います。
理由1.ブッダが瞑想で得た智慧は、本を読んでも体得できない
仏教には膨大な経典と、それらを裏付ける圧倒的な論理があり、その完成度は非常に高いと言われています。
また、日々をもっと柔軟に過ごすための、ホッとするような包容力もあって、とてもバランスのよい教えだと思います。
ですが、僕の読んだ多くの仏教書や情報教材が悪かったのか、以下のような点で幻滅をしてしまいました。
- 「なんとなく日々を気楽に過ごすための心がけ」になっている
- 複雑で難しい話が多く、それを理解したからといって幸せになれるとは思えない
- 仏教の論理性や歴史を盾に、他の宗教を批判している
悟りとは、きっと頭であれこれ考えることでもありませんし、外側から身につける「知識」でも、思い込みでなんとなく前向きになる「心がけ」でもないはずです。
また、もし仏教の考え方が論理的に正しいものだったとしても、ある特定の「知識」を強く信じることは、かえって「執着」となって、硬い結び目のように、寛容性・柔軟性を欠きがちです。
これを「信念」と呼べば聞こえはいいものの、実際の場合、ほとんどが自分のエゴを守るためのロジックに使われ、自分とは異なる価値観を批判したり、ひどい場合は衝突にもつながってしまうのではないでしょうか。
悟りとはきっとそのようなものではなく、知識を超えて、差別や区別のない、ただ愛だけが内側から溢れるようなものだと思います。
そして、このような境地は、本を読んでいっぺんに得られるものではなく、ブッダがそうしたように、瞑想で自分の内側を見つめ、地道に気づきを深めていくことでしか手に入らないものだと、今でははっきり分かります。
理由2.何年も瞑想をしても、全く変わらない
一通り教えを学んだのち、仏教に本格的に取り組もうと思った意識の高い人たちは、次に実際に瞑想や座禅をしてみて、少しでもブッダのいう「悟り」の片鱗を感じようとします。
その際に、付近にある寺などで教えを受けながら実践する人もいれば、学者やセラピストの書いた本を購入して、独学で挑戦しようとする人もいるでしょう。
また、瞑想のやり方も様々あり、じっと座って心を見つめ、雑念が出てきたら流すというものや、あるいは、ある言葉を繰り返し集中して唱えるという方法もあるようです。
どんな方法であれ、一人でゆっくり座って無心になり時間を持つことで、ある程度、自分自身の穏やかさを取り戻すことができ、とても良い習慣だと思います。
ですが、瞑想の目的が単なるリラクゼーションではなく、本当に悟りを目指して、自分の変容を目指している人にとっては、だんだんとある疑問が湧いてくることでしょう。
それは、「いつまでたっても雑念だらけで、自分が何も変わらない」という根本的なものです。
少し昔に、あるお寺で10年もの間、座禅をやり続けたという人とセラピーで一緒になったことがあります。
しかし、それだけ地道に頑張ってきた方であっても、自分の性格の頑固さなどが原因で、仕事や人間関係がなかなかうまくいかないという悩みを抱えているようでした。
年数で比較するのもどうかと思いますが、ブッダが悟りを開くのにかかったのは6年間ほどと言われています。
ブッダの生きてきた時代や生活の状況とは全く違うとはいえ、10年頑張ったのに悩みは絶えず、雑念が次々と湧いてくるというのですから、思わず「やる意味があるのか」と疑ってしまいました。
この人以外にも、瞑想をなんとなく続けているものの、実際は自分が変容しているか分からない、という人はとても多いと思います。
もちろん、僕自身も独学で瞑想を毎日行っていましたが、正直まるで変わりませんでした。
大学の先生の翻訳した本に書いてある通り、ブッダと同じやり方で修行しているはずなのですが、雑念は消えず、流しても流しても湧いてくるのです。
そんなことを数十年繰り返しても良くならないとなれば、「悟りなど存在しない!」と憤慨する気持ちも分かります。
決して楽をして悟りたいというわけではありませんが、それでも「もっと効率の良いやり方があるのでは?」と感じるのは、僕だけではないと思います。
理由3.出家をして極端な苦行をしなければ、悟れない?
悟りを目指そうとするときに突き当たる問題として、やはり「外の世界の影響」を挙げなければなりません。
試しに、外で仕事をして帰ってきた時と、一人で家に居てじっとしていた時の瞑想を比べてみてください。
後者の方が、圧倒的に内側に入っていける感覚があると思います。
それだけ、日々の生活で色々な人からたくさんのエネルギーを受けているため、やはり修行には人から隔離された静かな環境が不可欠なのです。
そのような意味で「本格的に悟りたいなら、出家して世俗から離れよ」というのは、間違ったことではありません。
ですが、日本人として生まれ、日本の社会で育ってきた人にとって、「出家」という選択肢は、あまりに極端に思えます。
本当の理想を言えば、普通に社会人生活を営み、子供を育てたりしながら悟りを目指せる道があれば、それが一番だと思いませんか。
社会との関わりをあまりに無視しすぎるのもバランスが悪く、孤独故にエネルギーが滞る原因になってしまうと思うのです。
また、ブッダの時代から数世紀経って、状況も大きく変わっている今、その当時の極端な修行法をそのまま踏襲しようとするのはリスキー過ぎるように思います。
日本でもしブッダと同じように出家して何日も断食を行ったり、過度に自分を痛めつけるような修行を行わせる団体があったら、公安から目をつけられてしまうでしょう。
現代でも千日回峰行といった過酷な修行法があるそうですが、果たしてそんな辛い思いをしなければ悟りにはたどり着けないのでしょうか。
苦行を繰り返すことで、本当に内側から愛が溢れたり、雑念がなくなり純粋になるということが起こるのでしょうか。
個人的には、神様からいただいた心と体は、もっと大切にして、誰かを幸せにしたり、安定した瞑想のために使うものだと思っています(もっとも、現代では、大切にしすぎて弱ってしまっているのですが)。
「ストイックな自分」との共依存も起こりやすい
このように、仏教を厳密に極めようとすると、どうしてもストイックにならざるを得ないわけですが、その構造自体にもリスクをはらんでいます。
それは、「ストイックさはエゴに結びつきやすい」という点です。
ブッダのように、まっすぐ戒律を実践できれば良いものの、多くの場合、自分の中に堕落的な気持ちがあるのにもかかわらず、それを抑圧してまで教えを守ることが正しいように振舞い、「自分はこんなに教えを正しく守っている」と意地を張ってしまうのです。
当然のことですが、いくら気持ちを押さえ込んでも、あるものをないことにはできません。
このような抑圧を繰り返しおこなっていくと、エゴとして固着化して頑固になり、それをほどくのにもっと時間がかかってしまうのです。
それはある意味、ストイックな自分との共依存であり、ブッダのいうような「執着を捨てていく生き方」とは真逆のものと言えるかもしれません。
本当に悟りを目指すために、仏教を去らざるを得なかった
このような理由で、僕は仏教を去り、さらに本当の真理を求める旅を続けたのでした。
もちろん、ブッダの教えは不滅であり、その真髄が衰えることはありません。
僕自身も、今でもブッダが示してくれた教えには(失礼な表現かもしれませんが)、今でもとてもワクワクしています。
ですが、現代の日本において、悟りのために必要なのは、厳しい苦行ではなく、日本のライフスタイルに馴染むような、社会人として普通に生活しながら、同時に神を愛し、悟りに近づいていけるような教えではないでしょうか。
ブッダの時代からこれだけの年月が経っています。それなら、悟りの道ももっと進化しているはず。
・・・実は、そのような道が今、日本にあります。
もし本当に悟りを追求するお気持ちがあれば、ぜひ以下の記事をご覧いただき、本当の瞑想を実践いただければと思います。
それでは、ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。