誰もが人生の中で一度は、自分の生き方について、じっくり見つめ直す時期があります。
例えば、就職活動や、何か大切なものを失った時、大きな挫折を経験した時など、人生の転換期においてこのような問いが浮かぶのでしょう。
普段は何も考えずに過ごしていたところ、このような決断を迫られる状況になって、はじめて人は真剣に自分の生き方を見つめ直すのかもしれません。
そうした時に、ふと「自分は何のために生きているのだろう」「本当の自分って何だろう」と立ち止まる人がいます。
多くの人が何も考えずに現実を突き進む中、そこで足を止めたのは、無為に日々を過ごすのではなく、あなたが本当に意味のある生き方を求めているからです。
その問いに目覚めた時から、あなたが本当の自分を生きるための模索、つまりは自分探しの旅が始まるのです。
今回の記事では、この“本当の自分探し”について、様々な観点を交えながら、あなたの求める答えにたどり着く最速の方法についてお伝えしていきます。
自分探しを始める前に
はじめに、自分探しを始める前に気をつけなければならない点をお伝えします。
それは、第一に「現実をおろそかにしない」ということです。例えば以下のような自分探しをしている人は、注意が必要かもしません。
- 嫌いなことは避け、好きなことだけを追い求めている
- 自由な生き方のみを目指して、堅実な生き方を否定する
- 理想だけを追い求めて、地に足がついていない
要するに、自分探しのために、社会生活を犠牲にしたり、他の人の意見に耳を貸さないような状態では、考え方が極端になりやすく、望ましくないのです。
自分探しは、確かに重要なことなのですが、それは社会生活を十分にこなしていることがまず前提条件であるといえます。
社会で働いて収入があるからこそ、自分探しのために惜しみなく投資ができたり、人との関わりを通して重要な気づきを得ることができるのです。
このように、自分探しは、社会生活に根ざしながら、なおかつ社会に埋没せずに、自分の意思を持って進めていく点が重要であることを先にお伝えしておきます。
本当の自分探しの3ステップ
さて、自分探しを効率的に行うためには、その全体像を知っておく必要があります。
その説明のために、ここでは哲学者キルケゴールが示した「実存の三段階」と呼ばれるものを参考に説明していきます。
- 美的実存:世間的な快楽や、美しさなどに無限の可能性を感じて追い求め、感覚的に生きる段階
- 倫理的実存:倫理感に基づき、人として正しくあろうとすることで、自己実現を目指す段階
- 宗教的実存:自分を超えた大いなる存在と向き合い、本来の自分を取り戻そうとする段階
これは、人が本当の自分を探す過程で、外側の目に見える世界から、内側の見えない世界へと進んでいくプロセスを表しているものです。
それぞれ、具体的な例をあげながら理解を深めていきましょう。
第一段階:自分の欲を満たす生き方
第一段階の「美的実存」は、自分自身の欲を満たすために人生を送っている状態のことをいいます。
例えば、自分探しを始めるときに、パッと思いつくものを挙げてみましょう。
- 趣味を始める
- 色々な国へ旅行へ行く
- コミュニティに参加する
- 色々な人と恋愛をする
- 自己啓発のセミナーに参加する
確かに、こうした新しい人生のチャレンジは、自分の価値観を広げ、心を豊かにするきっかけになります。
しかし、これらの行動の共通点を探ると、本当の自分を探しているというよりは、単に”自分の乾きを満たしてくれる体験”を求めていることが分かります。
欲を満たしても、本当の自分には出会えない
心理学者のマズローは、人の基本的な欲求を5つの階層で示しましたが、上記の例も、そのいずれかに当てはまるものといえます。
- 愛と所属の欲求:自分の仲間を見つけ、共感をしたい
- 承認欲求:人から尊敬され、必要とされたい
- 自己実現欲求:自分の可能性を最大限発揮したい
※さらに基本的な欲求として安全欲求、生理的欲求と呼ばれるものがありますが、これは現代の日本では大半の人が満たされているものでしょう。
もしもあなたの自分探しの動機が、何かの欲を満たすことなら、そのための具体的な行動を起こすことで、悩みは解決する場合もあります。
例えば、自分と価値観の合うパートナーに出会う、自分にぴったりの仕事を見つける、色々な国を旅して違う文化を楽しむなど…
こうした体験が得られるだけで、本当の自分に出会わなくても、自分探しの旅が終わることもあるでしょう。
実際のところ、自分探しをあえてしない人の大半は、これらの欲求が自分なりに満たされているため、足を止める必要がなかった人たちなのです。
しかし、当然ながら、この状態はただ欲求を満たす対象が見つかっただけで、本当の自分が見つかったわけではありません。
本当の自分に出会うには、まず「外側には本当の自分は存在しない」ということを理解する必要があるのです。
外側に本当の自分が存在しない理由
様々な欲望を満たす喜びに夢中になっている時は、とても強い生の実感を伴いますが、これは残念ながら単なる「刺激」にすぎないものです。
人は目の前にある快楽が無限であると思いなして、夢中で追い求めますが、全ての刺激は一時的なものであり、いつかは消え失せるか、飽きてしまうものです。
それは誰でも薄々は理解しているはずなのですが、いざ自分が快楽を得てきた対象を失うと、とたんに自分を保てなくなって苦しんだり、落ち着かない不安な感覚を覚えます。
そして、心の平静を保つために、自分の欲求を満たしてくれる新しい刺激を追い求めます。
その後、無事に新しい対象を得られても、今度はそれを失うことを恐れて、過剰にこだわったり、神経質になったりと、心は一向に落ち着くことがありません。
このように、外部の何かに依存し、刺激を求めるだけの自分探しは、ただ「喉の乾きを水を飲んで潤す」という動物的な生存本能と全く変わりはないのです。
自分を超えて進化をしたい欲求
しかしその一方で、ごく一部の人が「この苦しみと楽しみの繰り返しが、果たして本当の人生なのだろうか」と疑問を覚えます。
私たちは、潜在的に、そうした動物的な自分を超えて、より高い存在へと進化したいという強い衝動を生まれながらに持っています。
ともすれば快楽に堕落しがちな自分を超えることで、永遠の安らぎ、最高の幸福をもたらしてくれる何かを本能的に求めているのです。
それを先述したマズローは「自己超越欲求」と呼び、これを人間が持つ最も高次の欲求として位置付けました。
本当の自分探しの旅は、この気づきからスタートして、その先の進化へと歩み始めるのです。
第二段階:人としての正しさを追求する
自分探しの次なる段階は「倫理的実存」と呼ばれるものです。
自分の欲を満たすだけの人生に飽き飽きした人は、それを超えた生き方をするために、「人としての正しさ」を追求するようになります。
その場合、まずはどのような生き方が良いのかを研究するために、先人・偉人の教えを学び始めることが多いのではないでしょうか。
その上で、正しい生き方を実践すべく、日々の行動を正す努力をしたり、他者への奉仕活動に活路を見出すようになります。
この「人としての正しさ」を追求するプロセスにおいては、気をつける点があります。
それは、
- 知識のみで悟った気にならない
- 自分の行動を変えても、心は変えられない
という二点です。
それぞれについて具体的に説明をしていきます。
知識のみで悟った気にならない
自分の生き方を見直すための手がかりとして、「本」は確かに優れたツールです。
例えば心理学や哲学、あるいは聖書など宗教の本から新しい価値観を学び、その瞬間は水を得た魚のように生き生きとするかもしれません。
本には、先人たちが人生をかけて編み出した知恵が詰まっており、それを学ぶことで自分で一からその苦労を経験せずに済むというメリットがあります。
しかし、ここで多くの人が陥ってしまう罠があります。
それは、“知識を得ただけで悟った気になってしまう”ということです。
例えばですが、いくら水泳に関する本をいっぱい読んだとしても、その人が実際に泳げるわけではありません。
それと同じように、いくら真理について饒舌に語れたとしても、それを自分自身が実際に体験したことがなのであれば、それは借り物の知識に過ぎないのです。
自分自身で真理を体感する
本当の自分に出会う上で大事なことは、外から知識を学ぶことではなく、自分自身の内側から真理を見出して、それを全身で体感することです。
キルケゴールはこれを「主体的真理」と呼び、以下のような言葉を残しています。
私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために死ねるような真理を発見することが必要なのだ。
「本当の自分」についても、普遍的な知識体系は存在するかもしれませんが、それを頭で知ることは、あくまで通過地点にすぎません。
得た知識を踏み台にして、それを体得するための行動を起こすことが、本当の自分を知るために欠けてはならないステップなのです。
自分の行動を変えても、心は変えられない
さて、様々な分野の本を読んで学びを深めると、最終的には“人に奉仕をすることで本当の自分に近づく”という結論に達するケースが多いように思えます。
人への献身を通して、自分の人格を高めようと努力することは、それ自体とても健全で前向きな生き方であり、大いに勧められるべきことでしょう。
しかし、本当の自分に出会うという本来の目的から見た場合、人への奉仕だけでは残念ながら不足している点があります。
それは、“自分の心を変えることができない”ということです。
例えば、自分の一生を奉仕に捧げたマザー・テレサは、死後、以下のような言葉を残していたことが発覚しました。
私がシスターや人々に神や神の仕事について口を開くとき、その人たちに光と喜びと勇気をもたらすことをよく理解しています。
しかしその私は、光も喜びも勇気も何も得ていないのです。内面はすべて闇で、神から完全に切り離されているという感覚です。(75才の時の告白)
あれだけ多くの人々を救い、誰もが理想としていた人物だったのにも関わらず、本人の心は闇で支配されており、一生を苦しみとともに終えたのです。
あのマザーテレサですら、奉仕によって救われないのであれば、ましてや私たちが奉仕によって本当の自分に出会うことは、難しいことに違いありません。
この事例は「いくら行動を正しても、自分の心は変えられない」ということを表しているのではないでしょうか。
良い行動と良い心の両方が必要
善行をするときには、「身口意」というように、体で良い行為をしながら、同時に心も良い思いを持つことがとても重要な意味を持ちます。
一方で、もし行為と思いが乖離していたら、それはむしろ本当の自分から遠ざかり、ますます心に苦しみを生み出すことになるのです。
そのような状態で奉仕続けても、穴の空いたバケツで水を汲み続けているように、いつまでも満たされることはなく、いずれ消耗をして疲れ果ててしまうことでしょう。
利他的な生き方によって、本当の自分を探そうとする人は、一度は大きな希望を抱くものの、この”心は変えられない”というジレンマに陥り、葛藤することになります。
そこでとりうる選択肢は、それでもひたすら頑張り続けるか、あるいは「人間とはそういうものだ」とすっかり諦めてしまうことです。
しかし、そんな生き方ではやはり納得がいかない、さらに本質的なものを求める人のみが、さらに次の段階へと進んでいくのです。
第三段階:大いなる存在に身を委ね、一体となる
最後の段階は、「宗教的実存」と呼ばれ、大いなる存在を信じ、自分自身の全てを委ねるという考え方です。
欲望を満たすだけでは本当の自分に出会うことができない。また、自分の心を自分で変えることはできず、正しい生き方ができない。
そのことに気づき、絶望した末に、そもそも「ちっぽけな自分の力」で何かをしようとすること自体が無意味だと気づくのです。
そこで、もはや自分自身そのものを放棄し、自分をこの世界に送り出した存在を信じて、丸ごと身を委ねるという発想に至ります。
これをサレンダー(降参)、帰依などと呼び、自分という意識・エゴを、大いなる存在を信頼して、一切躊躇うことなく捨て去るのです。
そして、このサレンダーを深めていくことができれば、最終的に本当の自分にも出会うことができるのです。
エゴを外して、宇宙に溶け込む
唐突に慣れない考え方が出てきて混乱するかもしれませんが、とてもシンプルな発想です。
まず、この宇宙という「全体」に対して、人間には自分という「個」、すなわちエゴがあります。
植物や動物は意志を持ちませんが、人間だけがこのエゴという意志を持ち、自由に生きる権利を与えられています。
しかし、その自由意志を持つことが仇となって、かえって「人はどう生きるべきか」と悩み苦しむことになります。
そこで、もしこの自分というエゴを無くしていったら、何が起こるでしょうか。
自分という「個」がなくなったなら、その個を包み込んでいる宇宙全体に、存在が溶け込んでいくことになります。
そして、完全に自分をなくすことができた時、自分自身が宇宙そのものになることができ、その瞬間に全てのことが体験と共に理解されます。
これが、本当の自分との出会い、悟りともいわれる境地の秘密なのです。
小さい自分を超えて「大我」となる
エゴを無くすということは、つまりは自分の欲望を捨て、さらには心を働かせることを止め、「死」に限りなく近づくことを意味します。
そのためには、食欲や性欲といった基本的な欲求のほか、自分の価値観やこだわり、自分が無くなることへの恐れや不安なども捨て去る必要があります。
宗教的に言えば、こうした動物的な生存本能に根ざした「私」は「小我」であり、自分ではあるのですが、本当の自分ではありません。
この小さな自分を超えて、この宇宙、大いなる存在と一体になった時の自分である「大我」、それがつまりは、ずっと探し求めていた「本当の自分」であるのです。
この原理を知ったなら、本当の自分と出会うための行動はただ一つ、ひたすらエゴを落としていく方法を実践することなのです。
エゴを落とすための具体的な方法は?
エゴを落とす方法は、すでに先人によっていくつかの方法が示されています。
そのひとつが善行であり、例えば奉仕や布施などが当てはまります。これはどの宗教でも共通した実践法といえます。
それぞれの宗教が善行を勧めるのは、これまで自分の欲に従う生き方をしてきたところを、逆に人に与えるという行為を通して、エゴを落とすことができるからです。
しかし、先ほども説明したように、そうした行為のみで心を変えるには途方のない時間と労力がかかり、かえって遠回りになる場合もあります。
そこで、もっと心に直接的に働きかけ、エゴを外していく方法が求められます。
そのただひとつの方法こそが「瞑想」です。
瞑想はエゴを落とす最高の方法
瞑想は、五千年以上も前に生まれた、まさしく本当の自分に近づくための実践的な方法論です。
瞑想は一箇所に座り、心を無にすることが基本となりますが、これはすなわち、自分のあらゆる活動を停止させ、生きながら限りなく「死」の状態に自分を近づけることです。
その修練を積むことで、エゴも次第に薄くなって純粋で透明な状態になり、最後には宇宙全体に溶け込めるようになっていくのです。
「自分が無くなっていく」ということだけ聞くと恐ろしいものですが、実際に体験すると、その状態は決して怖いものではないことがわかります。
むしろ、自分が無くなった時、まるで無限の存在に抱かれる深い安心感や、さらにはそこから生命力が汲み出されるのを実感されるのです。
そのように、瞑想を行うことで、死と再生のプロセスを自分の身で実感でき、見えない世界で起きていることが体験的に理解されることでしょう。
瞑想を始める時の注意点
しかし一方で、瞑想を深めるにあたっては細心の注意が必要になります。
瞑想によって、自分の潜在意識に深く入っていくのですが、そこには、過去積み重ねてきたネガティブな記憶も膨大に蓄積されています。
もしもその潜在意識のパンドラの箱を一気に開けてしまったら、精神が耐えきれず、誰も手がつけられない状態(霊障)になってしまうこともありうるのです。
瞑想にはそうしたリスクもあるため、その道を一人で暗中模索することは非常に危険なことです。
そのため、瞑想を始めるのであれば、まず人間の内側の全てを知り尽くしたような先生を見つけることが、最初のステップになるでしょう。
そうした先生のガイドがあってこそ、安心して瞑想を深めることができ、いずれ本当の自分に到達することも可能になるのです。
本当の自分に出会う旅を今から始めよう
ここまで、本当の自分探しに出会うためのプロセスと、その方法として瞑想を紹介しました。
「押してダメなら引いてみろ」ではないですが、これまでの生き方とは真逆の方向を選択することで、本当の自分が見えてくるのです。
- 欲に従うのではなく、それを超えようとする
- エゴを膨らませるのではなく、大いなる存在に身を委ねる
- 「生」ではなく「死」に目を向ける
もちろん、ただこうして理想を知ったところで、すぐに実践できるものでも、体験できるものではありません。
この記事でも色々な観点を示してきましたが、それは見えない世界の話を理性的に理解いただくための「方便」なのです。
最速で本当の自分に出会える瞑想法とは?
それではなぜこの記事を書いたかというと、あなたに本当の自分に出会うためのただ一つの方法、つまり「最高の瞑想」を紹介したいと思ったからです。
私自身もその瞑想を実践することで、悟りとまではいかないまでも、本当の自分を垣間見ることができました。
さらに、その瞑想法によって、社会生活も充実したものになり、毎日が楽しく、悩みもなく、この世界と調和を保って生きることができるようになったのです。
私は、その境地を得るために何かを犠牲にしたわけではありません。
全てを持ちながらにして、本当の自分に近づくことが、この瞑想においてのみ、可能なのです。
私は散々な苦労をした結果、そこにたどり着くことができましたが、そんな回り道を他の人にしてほしくありません。
ぜひあなたも瞑想を実践されて、本当の幸せ、生きる意味、宇宙の真理、その全てをご自身で体験していただきたいと願っています。
以下の記事に私がその瞑想で体験したことを全てまとめていますので、ご興味のある方はぜひ続けてご覧ください。
それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。