プラトンは、わたしたちが一般的に思い浮かべる「善」とは、かなり違ったとらえ方をします。
プラトンは、例えば人助けなど、世の中で「善」と思われている行動や考えをそこまで重視しませんでした。
そうではなく、プラトン自身が「善そのもの」と強調して区別しているように、「まさしくそれによって善であるところのもの」を説明しようとしました。
つまりは、状況によっていくらでも変わるような善ではなく、「この要素があれば、人間であれば例外なく必ず善と認める」ような善を追究していったのです。
プラトンの考える善
プラトンの善の定義は、
存在するものの存続の原因。万物が自己の目標としてもっている元のもの、それによって何を選択すべきか決定される元のもの(プラトン全集より)
というようにまとめられます。実際のところ、プラトンのいう「善」はかなり「神」に近い概念です。
人間がそれ自体で素晴らしいと感じる「真善美」や「愛」といった経験の「すべての原因」であり、人知をはるかに超えたところに実在するもの、としています。
プラトンは、この神のような「善そのもの」について説明することは畏れ多く、とてもできない。しかし善の子供のようなものであれば説明できる、と前置きした上で、かの有名な「太陽の比喩」を語りました。
太陽の比喩
太陽は、植物、動物問わず、万物を生成させる原因であり、また、すべてはその光に向かって成長していきます。
善の場合も同様に、人間は善のもとに存在し、善を目標に成長を望み、可能な限り近づこうとします。
また、万物は太陽によって照らされることで認識されて存在しうるように、人間の知性においては、この太陽のような善が、同時にものごとの判定基準として存在することで、様々な概念を認識することができます。
例えば上下、大小、美醜といった反対概念がありますが、私たちはこれを誰から教えてもらうでもなく認識し、完璧とまでにはいえないまでも、ある程度判定することができます。
これは、そういった識別する能力、判定基準(=太陽)がもともと人間の魂に備わっているためです。
何かを美しいと判断するためには、前提として、美しさを識別する能力や判定基準が自分の中になければならないでしょう。
プラトンは、人間が元来このような判定基準をもっているのは、人間が生を受ける前に、全ての原因である「善そのもの(=イデア)」を観たことがあるからだとしています。
実際のところ、幼児でさえも不協和音を聞き分けることができるのですから、人間がこの判断基準という知識を持ったタイミングは、確かに生れる前としか考えられません。
そして、生まれる前に何かを知るということは、物事を知る主体、すなわち魂の存在がなければならないのです。
人間は絶えず「善」を希求している
「善」そのものを観た魂は、人間の肉体に宿っていても、あたかも離別した母を探し求めるように、絶えずそれを探し求めます。
プラトンは、「饗宴」において、そのもっとも顕著な例として「愛」を挙げ、人が愛を美しいものと感じ、それを所有することを望んでやまないこと、それこそが、かつて目にしていた真善美の原因でもある「善そのもの」へのあこがれに他ならないとしました。
人間は知らないものを欲求することができませんが、私たちはかつて善と共にあり、その素晴らしさを知っているからこそ、現世において美しい体験を必死に求めているのかもしれません。
人間は、そのような善きものを「永久に」所有しようとすることによって、幸福になろうとするのだといいます。
その思いの実現のために、私たちは、様々な生産活動、たとえば自らが最も美しいと思う者との間に子をなしたり、美しいものを創造しようとしたり、あらゆる種類の徳を産出し、それにあずかろうとするのでしょう。
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